ラベルとしての言葉とそこに満たされてるもの

言葉について考えている。
まず、言葉はラベルに過ぎない、ということを忘れないように。文法については保留。文体はリズム。でもここではまず、ラベルとしての「言葉」について。

言葉はラベルに過ぎない。でもそのラベルを貼った瓶の中に、何が満たされているかは、ひとつひとつの世界で異なっている。これ、も、今これを読んだ誰かの頭の中で発された「これ」も、異なっている。
だから、あれとこれとがイコールだとか、正しい正しくないとか、そんなところには意味がない。「意味」だってない。意味は見つけるかどうかだ。
例えば音楽や絵から受けとる「何か」があるように、言葉からもそれを受け取れるはずなんだ。文章でも同じ。むしろ、それが何かの説明書などの「役割」を持った文書でない限り、私が文章というラベルから受け取りたいのはその「何か」のほうだ。たとえそこに「フィクション」とか「ネタ」などという説明書きがなくたって、そこに内包されている「何か」を受け取ることを躊躇する理由なんてない。

そう考えていても、ラベルと中身を間違えることはある。しょっちゅうある。
例えば誰かの言葉によって、自分の信仰するものの根幹が揺るがされたと感じたとする。自分の誇りを傷つけられたことにたいして、怒っている「私」は、その信仰の根拠を証明しようとするかもしれない。でもその行動が何を明らかにするだろう? だって、その信じるという気持ちを支えるものは、「私」自身でしかない。それなら、それを証明することで明らかになるのは、また別のものなんじゃないだろうか。
その感覚を説明するのは、難しい。
でも、その難しさが目の前にあるからこそ、私は、例えば誰かの言葉を読んで、それをその人の意図した通りに受け取るなんていうことはできないと思っているし、ましてやラベルとして、使う/読むなんてことは、前提に過ぎない。すべては、そこに満たされている何かが、私の受け取った「何か」とは異なっているというところではじまる。
そして、その何かと「何か」が触れあっているかもしれない、と思えること。さらにそれらを可能な限り近付けたくなるくらいの「何か」に私は興味がある。そしていつか、その「何か」を重ねることが出来ればいいなと、ほとんどそれだけを夢見ている。重ねる、という言葉は違うかもしれない。それを言い表す言葉はまだ私の中にはない。真っ白なラベルと、からっぽの瓶があるだけだ。それをいつか満たしたい。そういうことだと思う。そしてその色を、味を、音を探している。

だから、私にとって、本を読んだり音楽を聞いたり映画をみたりするのは、そのときまでに自分の様々なラベルの奥にいろんな要素を含ませておきたいということでもあるんだと思う。だって「何か」を見つけたときに、気付けないと困る。そして、言葉の新しい使い方を教えてくれるような本は、例えばこういうことだと思う。

あと、もう一つぼくが強く感じたのは、ニーチェの本を読むと言うことは、「そのときの自分の本質を読むようなもの」だと言うこと。ニーチェの本は、本というより、何かの装置なんだ。
http://fromdusktildawn.g.hatena.ne.jp/./fromdusktildawn/20060519/1148035055

『これがニーチェだ』の感想をあさってて見つけた記事だったのですが(michiakiさん経由でもあり)いい言葉だなぁ、と思いました。でもなんかつい先日までいろいろ書いてたので、ああああ、という気分もあるんですけど、ともかく早速おすすめされてた竹田青嗣さんの『ニーチェ入門』を買ってきました。そんで読みはじめたけど…という先はいつかまた。

そしてラベルの話に戻る。この文はきっと、ある人にとってはあまりにも稚拙で、ある人にとっては全くからっぽな文章なんだろうなと思って書いてる。でもいつか、空っぽ、もしくは、色付きの文章を書きたいなと思う。
だから、私はもっと、うまく言葉を選び、使えるようになりたい。