「日本論」考察

かつては「世間体」「親孝行」「職人魂」「愛社精神」「人情深さ」「仁義に厚い」「家族を養う」「おやじ」「おふくろ」等の、外部にある物語に自分を重ね合わせた。その社会が共有し社会を構成していた物語は、グローバル化、価値の多様化、物的豊かさによって拡散した。現在は各自が自分を映す鏡を欲しがっている状態である。周りに認められたい心情。現在の新たなウツもその一つか。内発的動機も「成功本」のリファレンスである。

日本人にとって大人になることは日本社会の精神性に迎合することであった。社会=人生(同義語)を生きる上での不条理は、問題解決思考へ向かわず、演歌や川柳などから慰めを得て、現実と心との不合理をつじつま合わせすることで解消しようとした。カバー出来なかった心の不条理は、各人の心理的トラウマとして刻まれた。人情話のカタルシスが精神的負担を軽減し、人情というセーフティネットの機能が生活の場に作用したが、現実には偏見と他人への冷徹さを含んだものであった。

かつては立て看板のように、日本社会の周りにたくさんの物語が立てかかっていた。それらのいくつかを選択し物語を抱きしめることが、日本におけるアイデンティティの確立に近いものだった。自己=社会共有の物語への迎合であり、社会のあるべき姿、自分の社会に対するあり方を規定する考えはなかった。しかし、噛みごたえのある精神論が社会と人格を支えていた。
社会共有の物語への迎合によって自己の存在意義は規定された。社会共有の物語という大義への同化によって自己承認を、その価値を尊重する、社会を構成する人々からの肯定的なストロークから他者承認を充足できた。
それらの社会共有の物語が社会の支柱となり、社会を動かす源となっていた。現在は社会構造の形骸だけが残り、人々が迎合した物語はなくなってしまった。現在の人々の活動は社会の表向きの維持を目的とした動機に基づいたもので、もはや推進力を失っている。グローバル化による競争力激化という外的圧力に反応した効率化によって、モノ、サービス、社会システムのブラッシュアップはできているがイノベーションは発生していない。
(殆どの人は自らの生活の維持を第一の願いとして生きている。その願いの不充足がその人々が感じる社会問題である。そのような卑近な問題意識を下にした民意で行う選挙制度では、グローバルで本質的な社会問題の焦点に到達することはない。政治家や官僚も、保身というスタンスから足を踏み出さない限り同様だ。)
グローバル化、価値観の多様化、物的豊かさによって、かつての物語のほとんどは形をなくしてしまった。承認欲求、ステータスを得るための外部価値の所有への欲求といった、自分の存在を確認するための鏡を欲しがっている状態である。そして、生産活動ではなく、消費活動によって自己愛への満足を得ようとしている。
経済成長によって社会が豊かになると、シラケブームが到来し、社会共有の物語に迎合する行為をバカにする覚めた視点を持つスタンスが流行り始める。それも結局は「世間の目」が変化したものであった。物語を抱かないスタンスだけであって、社会はどうあるべきか、その中に自分はどのように立脚しているのかという自己規定をするほどの強さはなかった。噛みごたえのあった精神論も、アメリカナイズされた生活習慣が浸透した世代には、もはや継承されなくなった。精神論は生活習慣と表裏一体であるからである。
社会物語への迎合(かつての「大人になる」こと)をしなくても、フリーターとして生きていけたし、ゲームをしたりやテレビを見れば自己愛を満たすことができた。

「世間の目」から「シラケブーム」それが進化し「KY」に変化する。それが自分の存在意義を規定できない人々が行動の規範とするものである。だが、自らのその場での立ち位置を認知しているのが進化した点である。それが、社会で生き残るためのスキル、飯のタネであるならば必要性があるものと思う。
昨今の自己啓発ブームによる意識や行動のブラッシュアップは、新たな精神健全化の動向である。グローバル化による局所的垣根の消滅で、競争の激化という外的圧力が高まり、気づきという意識化が加速される。気づかない人々も誤った行動が制限され、半ば強制的に矯正せざるを得なくなる。