ブログ版『ユーリの部屋』

2007年6月から11年半綴ったダイアリーのブログ化です

「武士道」の話から来し方を考える

このブログを書き始めてだんだん気づいたことは、なぜ(自分はたいしたことない)と思ってきたのか、あるいは、思わされてきたのか、ということです。
誰の目にも触れる可能性のある媒体を通して書いているのですから、単なる内向きの独り言では問題外ですし、思い違いや表現のまずさは別としても、そもそもありもしない嘘は書けませんので、これでもかなり慎重に綴っているつもりです。昔の思い出話がところどころに顔を出すのは、自由な思考の働きのなせるわざでしょうか。
だからといって、今でも(あ、たいしたものなんだ、私)と思っているわけでは全くありません。しかし、どうして社会に対して引け目のような感情を常に抱かされてきたのか、という点では、今後の歩みの上でも、一つ考えてみる必要性があるだろうと思います。

太田愛人先生の新渡戸稲造のお話は、非常におもしろかったので、昨日も書いたように、太田先生の著作リストを作って図書館で借りる手はずを整え、新渡戸氏の『武士道』の読み直しまで始めました。以前、ゲルギエフの大阪公演に際して、「良いクラシック演奏会とは」について書きましたが(参照:2007年11月20日付「ユーリの部屋」)、演奏会のみならず、よい学会、よい研究会、よい講演会、よい会合に関しても、同様のことが言えるかと思います。つまり、集中して楽しく聴くことができ、来てよかったと心から思えて、その後も続けて自力で関心を深めていきたいと感じられるものが、私なりの「良い」の基準です。場所や参加人数やその他もろもろは、ですから二の次となります。

「おもしろい」という感情は、新鮮な知見を与えられる時、それまで自分の持っていたものに揺さぶりをかけられる時、あるいは鼓舞される時、刺激と広がりと深化がもたらされる時に、内側から湧いてくる感興のようなものですが、最近では、残念ながら減ってきたようにも思われます。古本屋さんに並べられているような昔の本の方がおもしろく感じるのは、中身に重量感があって読み応えがあることと、残っている本にはそれなりの意義と価値が認められるからだろうと思われます。そうすると、最近は、情報が細かくなり、量的にも拡大してきたものの、珍奇な、あるいは平板な内容も増えてきたので、同時に、時間と労力の無駄も味わわされているということもあり得ます。

武士道は、士族が中心の思想なので、いわゆる「平民」には縁のないものと思われるかもしれませんが、実は、上の階級の人達がしっかりすれば、自然とその他の階級の人々にも浸透していくものだ、という考え方があるようです。
こういう話になると、つい私は後ろに下がってひたすら平伏したくなってくるのですが、そもそも、自分の所属する「階級」とはどこにあるのか、が気になるところです。実家の両親は、長男の父が家を継がずに出てきたこともあり、「世の中では実力が第一であって、あまり係累を自慢したり寄りかかったりするものではない」というような‘自由放任主義的’育て方を私達にしてきたので、実は詳しく知らないのです。結婚前に妹や弟などに聞いてみた時には、「今はそういう時代ではない。気にもしていない」と平気の平左でした。ただ、どうも私は、国文学を専攻し、歴史に興味があるためか、自分のルーツを知りたいと思うのです。マレーシアでも、これまで現地で接してきた人々が、どの民族であっても比較的きちんとした家の出であることが多かったので、自然と興味が募ってきます。

昨日、主人と話していたら、主人の母方は士族系だったと言いました。主人の母などは、多くの小作人が玄関先で土下座するのを見て育った人だそうです。なので、主人から見ても、「あれでもうちの母は、結構プライド高いんだよ」とのこと。ただし、「だった」というのは、そのように「家柄がいい」と言われて育ったものの、現実の社会では、戦争を機に、農地改革で暮らしぶりが豹変してしまったこともあり、さまざまな苦労を重ねてきたからです。主人の父方の祖母は、大きな神社の神主さんの娘で、明治生まれの女学校出だとのことで、これまた気位の高い人だったそうです。
主人は、6歳から母方の祖父母の家で毎夏過ごすのが習慣だったので、祖父から過去帳を見せられ、名前も士族系とわかる人が多かったのを覚えていると言いました。司馬遼太郎の本で、家系に連なる祖先が誤って記述されていたとも聞きました(参照:2007年11月3日付「ユーリの部屋」)。確かに、亡くなった伯父と最後に会った時、家宝の刀を振り回していたのを思い出します。また、家には鶴見祐輔氏の書が飾ってあり、太字で見事なのに見とれていたら、主人の叔父が「おやじが鶴見祐輔と親しかったので」と教えてくれました。(東南アジア研究では親戚筋の鶴見良行氏が有名で、バナナだとかナマコだとか、おもしろい研究をされていたので、御縁というのはそういうものかとも思いました。私にとっては、マラッカ関連の著作が最も勉強になりましたが、ベ平連関係では、世代の差もあり、やや距離を置きたい気分でした。)

私の方は、学校時代に一度母に尋ねたところ、即座に「ドン百姓の出じゃないの?」と言ったので、ずっとそのことを本気にしていました。マレーシアで仕事をしていた頃、同僚の一人が「うちは武士系なんだよ。ユーリさんは?」と聞かれ、愚かにも母の言った通りに答えたら、「じゃあ、本来は、ここに来るべき人じゃなかったんだね。なんでユーリさんなんかが選ばれたんだろう?僕の知り合いは落とされたんだよ」と言われ、その後もそれ相応の扱いをしてきたことがあります。内心、不愉快な思いをしましたが、しかし、よく考えてみたら、母も冗談というのか、戦後の新しい考え方で育てたかったので、口から出まかせに答えていたんでしょう。まったく無責任な話です。

母方の祖母は、以前も「メイド考」(2007年9月12日付「ユーリの部屋」)で書いたように、大正生まれで、女中さんや小僧さんや髪結いさんに囲まれて育った人だそうで、女学校の送り迎えまでついていたと、よく私に言っていました。母方のいとこが名古屋大学(理系)で働いていた頃、教授の名簿を見ていて、たまたま祖母の兄弟の名を見つけ、上司に伝えたところ、上司にあたる教授が即座に確認をとり、「あんた、えらいおじさんを持っているんだね」と言われたとのこと。戦前、フランスかどこかに留学していたそうです。祖母の話ですから、どこまで本当なのか調べる術を私は持たないのですが、「だからいつでもきちんと振舞いなさい」との教えでした。
父方の祖母も、弟が国立大学の学長でしたし、もう一人の兄弟が県立高校の教頭か校長か何かをしていたそうです。祖父が99歳で亡くなった時に、お葬式で初めてお目にかかったつもりだったのですが、そのおじさんの方は、私を見てすぐに「ユーリさんでしょ?」と言い当てられました。
そうしてみると、親戚づきあいは煩雑で面倒なことも多く、現在では否定されがちですが、やはりルーツを知ることは大事だと思います。結局のところ、私自身に関しては、自慢するものは何もないですけれども、別段、それほど卑下するようなこともなかったというのが真相のようです。
今から思えば、戦争が契機となって、世の中の価値基準が良くも悪くも変わってしまったために、正確なことを知らされていませんでした。学校で教わることや教科書や本に書いてあることだけで、建前の部分をのみ、あるいは、あるイデオロギーや主張の一側面を鵜呑みにして物事を理解していたのです。ですから、不要な悩みを持ったり、‘損’をしてきた面も皆無ではなかったという気がしないではありません。

このブログでは、日本のキリスト教に関しても、自分の身の回りで起こった出来事を中心に、現状と将来を憂えて、かなり批判的なコメントも一部に記しています。その根拠として、実家の父が、二十歳の私にこう言ったことがあります。「うちの職場(都市銀行)にも、クリスチャンだという人が何人かいるけれど、どこか変わった思想から発言することが多い。だから、キリスト教には気をつけるように」と。明治のキリスト教指導者層を考えると、近代化に多大な貢献をしたのだから、必ずしも皆が皆「変」だとは思いませんし、日銀総裁だった速水優氏など現代のクリスチャン銀行家のことを、父としてはどう考えていたのでしょうか。(クリスチャンの間では、速水優氏が日銀総裁に選ばれたことで、ある面、氏を宣伝に用いている人達がいます。一方、人柄としてはクリーンで高潔であっても、経営手腕としてはどうなのか疑問視されていたという意見も聞きます。本当のところは歴史の判断を待つしかなく、時期尚早かもしれませんが、少なくとも、日本のキリスト教集団はマイノリティなので、都合の悪いことは出さない傾向があり、かえって信頼を損ねている側面もなきにしもあらずです。)

考えてみれば、時代背景や置かれた環境の相違はあまりにも大きく、それを無視して、「キリスト教」という概念のみで単一に括るのも、これまた間違いでしょう。
同じ日本基督教団の教団総会でも、ただでさえ小さな人口の牧師間同士で出身別の反目や対立があり、それが代々続くので、「鼻もちならない」と憤慨している話を、牧師筋の親戚だという人から聞いたこともあります。そのことが嫌で、純粋に信仰面だけを強調する福音派系の牧師になった人もいるそうですが、それを知らずに、聖書神学や社会階層の面だけで判断すると、またもや問題が出てくるだろうと思いました。

それはさておき、私の場合、以下の4点が引き金となって、自信を持って‘主流’の道を歩めなかったのかな、と思います。
1.マルクス主義的な考え方。これが社会に一部席捲していた頃、妬みや嫉妬からの発言であっても進歩的リベラルであると錯覚したために、若い時期に、半ば真に受けてしまったこと。すなわち、ブルジョワやプチ・ブルジョワであると誤って看做された場合、いわば非難の対象とされると、申し訳なさから相手の論に譲ってしまった弱さが私の側にあったこと。例えば、クラシック音楽などは、よい音楽家ならば、広く人々に浸透すべく努力を積み重ねているのに、それを知っていても、「あれはブルジョワの趣味だ」などという間違った批判を聞くと、ついそれに折れてしまって、音楽の話を公然としてはいけないかのように感じていたこと。
2.キリスト教。内心首をかしげながらも、若い人々に媚びたような大衆的なメッセージを聞いたり読んだりして、自分を責めて後退させていた時期があったこと。例えば、人に差別・差異があってはならない、とか、人をさばいてはならない、とか。確かにそれは正しく、もっともな話なのだが、文脈や背景抜きで一般化して単純に語られると、逆に誤謬や語弊を生む。
3.偏差値教育。これは私の大叔父が、文部省(当時)での直談判で猛反対していたことらしいが、新米学長の意見は、まともに取り合ってもらえなかったそうだ。世代的にも、私はその影響下でもがかざるを得なかったことも事実。できる子は、どんな教育制度の下でもできるはずだとか、伸びる子は放っておいても自分で伸びていくものだ、などと当時は言われていたが、偏差値は、必ずしもアカデミックな志向が正確に査定されるわけではない。むしろ、金太郎飴のような均質化と平板な差別化を社会に生み出したのではないだろうか。
4.いわば「偽悪主義」なる風潮。80年代から90年代前半のバブル崩壊以前までは、努力やまじめさを揶揄するようなところが、大手メディアにもあったのではないだろうか。刻苦勉励などは嘲笑の対象であり、遊んでいるように見せかけて要領よく階段を上っていくのが「格好よさ」であると、公然と語られていた時期が、確かにあった。

ただし、いわゆるグローバル化時代の現在において、上記の点は、現実的に淘汰されていく部分をも含んでいるため、修正や変更などが進行中であるとも思います。太田愛人先生のお話は、そういう意味で、「敗者」「辺境」の底力と意義を訴えかけるものであり、非常に深いメッセージであったと思われます。私にとっても、実にタイミングよくお目にかかれてよかったです。

ところで、コソボが独立の道を選択しました。こちらも、今後、紆余曲折の波乱万丈が予測されます。