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エヴァ様語録と今週の『魔法先生ネギま!』(137時間目)

 今週のネギまが面白かったので、久しぶりに長文感想書いてみます。
 今日は時間が無いので、またメモからの転載ですみません。

 エヴァがネギに絡むとテーマが締まるなぁ、と。

 最年長かつ、主人公の師匠であり、ナギ(主人公の到達点にして世界観の中心)を知る者、という立ち位置の所為もあるだろうけど、制作サイドがエヴァに思い入れを持ってるのが大きいかも知れない。

エヴァ様語録

 別に深読みするまでもなく作品世界のイデオロギーを代弁しているのがエヴァなので、ちょっと整理してみよう。

 というわけで「貴様少し小利口にまとまり過ぎだ」から始まって「常に手持ちの材料で前に進む癖をつけておくがいい」「つまりわずかな勇気だ」へと繋がり、エヴァはネギの強さに志向性を与えていく(最後の台詞に限れば直接教えたわけじゃなくて、ハートで伝えただけ)。

エヴァから刹那へ

 次にエヴァ刹那戦の「幸せな奴はつまらん」以降の、強さと幸せは両立できない論が始まるのだけど、これはせつアスに否定される(刹那に自分の価値観を伝えたいという期待を裏切られる)、と。


 漫画的には、エヴァと明日菜のどちらが「正しいことを言ってるのか」はまだ分からないので、大人と子供の意地の張り合いという図式になる(トラッドな少年漫画なら子供を肯定するんだろうけどなぁ)。
 136時間目では、エヴァが明日菜にカウンターパンチ(キックだけど)入れてましたね。

刹那からネギへ

 さて、こっからが少しややこしい。正直自分も良く把握できてない(笑)。


 まず「強さ」一点張りで前進することを覚えたネギに、エヴァ戦で開き直った刹那が「みんなのことを‥‥忘れないでください」と言って、「周囲に甘える」ことを勧める。

 でもネギはそれをまだ言葉の表面でしか理解してない(肝心な部分は誤解してる)ので、従者を増やす所まではなんとか妥協したけど、気持ちの上ではまだ「一人でやる」つもりでいる。

 つまりネギの意識の中では、「日常パートと非日常パートが融合してない」んだな。
(※日常パート=学園コメディ / 非日常パート=裏世界のバトル)


 クラスメイトや読者の意識上ではとっくに混ざり合って「融合」してるんだけど、ネギとしては「非日常と日常は往復するもの」程度にしか思ってないという、認識のヌルさがある。

 一人で非日常のバトルを解決した後、日常に戻ってくればクラスメイトが待ってくれている、というような「麻帆良祭以前」的な物語形式にネギの意識は留まっている(厳密には、麻帆良祭以前からネギはクラスメイトの力を借りてるわけだけど)。


 しかしクラスメイト達は、ネギと一緒に非日常へ入ろうとしている。ネギはこの事実を認めたくないので、無意識に抑圧している。

再びエヴァからネギへ

 この抑圧をエヴァは見抜いて、超問題(「自分こそが悪と呼ばれる者になるのではとな!!」)におけるネギの潔癖性とリンクさせながら今回の話を切り出したわけだ。


 本来は「将来の夢を叶える」ことだけを考えて麻帆良学園に来たネギにとって、クラスメイトとの日常や幸福は棚からぼた餅な「オマケ」でしかない。
 でも逆に、棚からぼた餅だからこそ失うのが惜しくなるもんだろう。だから非日常パートと融合させることで、折角のオマケを汚したくない。


 さて、エヴァの人生観からしてみれば、そういう「いいとこ取り」な生き方はありえないわけだ。
 非日常を生きるなら、「日常を捨てる」か、「日常を汚すリスクを冒す」かのどちらかしか、エヴァには考えられない(おそらくナギも、エヴァと同じように前者を選択していた人間だと予想される。ちょっと飛躍するけど、タカミチの「愛される資格はありませんよ」発言もこの問題に関連してるのかもしれない)。


 ここらへん、守りたいものとしての「日常」と「幸せ」は同一のものとして括っちゃっていいのかな。
 刹那の場合にしたって、木乃香は魔法関係者なんだから「木乃香と一緒に裏世界(非日常)で幸せになる」という選択肢もあると思うんだけど、「非日常は、非幸福である」というのがエヴァの価値観なのか。


 エヴァとしては、自分の価値観を変えたくないわけで、だからお説教をしなきゃいけない。
 だから「一歩を踏み出した者が 無傷でいられると思うなよ?」というのは、裏を返せば「もし無傷でいられたら、自分の価値観が覆されてしまう」という悲鳴にもなる。

 ここで「一歩」、というフレーズが出てくるので、「一足の内面的跳躍」というフレーズを内包する「わずかな勇気」の概念とリンクする。

 わずかな勇気というのは、エヴァにとっては「傷付いたり汚れたりするリスクを背負う勇気」でもあったわけだ(タカミチ戦のネギに関して言えば、そこまで深く考えてない、無自覚な勇気だけど)。
 ここらへんにエヴァの価値観が集約されている。
 赤松スタジオ的な「バーッと飛び降りて、後から対処する」「反動に強い」という主義が良く現れてもいる(「こうあるべき」的な善悪を相対化する、どこか枯れた思想も赤松スタジオらしい)。


 で、せつアスはそういうリスクが存在するんだっていう話を聞いちゃくれなかったと。
 ネギも子供なので、やっぱり話を理解してくれない。


 これも

  1. 「師匠の価値観を無視して超える」
  2. 「師匠の価値観を受け継ぐ」
  3. 「受け継ぎつつ超える」
  4. 「無自覚に受け継ぐ」

といった、主人公の将来性が提示されていて、こういう前振りはワクワクする。
 主人公の成長として、理想的なのは「無自覚に受け継いだ上で、更に越える」だろうなぁ(価値観を無視して超えちゃうと、エヴァの立場が低くなるから、エヴァファンが納得しなさそう)。
 エヴァ潜在的に、どの結果が来るのかわからん、と感じてキスとかしたのであろう。期待とか、愛着とか、恐れとか、誘惑とか、共依存とか、色々な感情があのシーンからは感じ取れて素晴らしい。

おまけ

 ちなみにどうしても妄想してしまうのは「ナギと再会できないことが確定した上で、ネギと明日菜達に価値観を無視されたエヴァ」とか。孤独に戻るしか無いよなぁ、その展開だと。
 逆に言うと、ネギにしてみれば「エヴァをほっといて幸せになる」がやりにくくなったわけで、主人公としての足枷が一つ増えたような感じ。
 主人公としてエヴァを納得させるか、それができずにトラウマ発生、かのどっちかしか無いような(そこまで描き切るかどうかは別として)。
 まぁ、いわゆる「吸血鬼の真の死」をテーマとして扱うかどうかにもよるかな。


 余談だけど明日菜の話もしてみると、明日菜は刹那やネギとは違うポジティブさ(要するに深く考えてない)で「非日常」と「日常」が両立できるものだと信じているし、ネギを日常に繋ぎ止めるのは自分の役割だと思っている。

 これは、「自分は日常側出身の人間だから」というアイデンティティの上に立脚しているポジティブさなので、当然、今後の正体解明によってアイデンティティも崩壊し、それに伴って「日常性の喪失」が起こる可能性もある。

 その場合、「ネギを日常に戻さないといけない明日菜」……を「日常に戻すいいんちょ」という新たな役割が生まれるので、やっぱいいんちょはいい立ち位置だなあと思うのであった。


 明日菜も日常性を喪失して初めてエヴァや刹那と同じ境遇に立つわけで、そこで一旦エヴァの価値観に共感した上で、再び日常性を回復させることができた後に、自分の言葉を貫くことができたら美しいかもしれない。
 う〜ん、こっちも妄想だな(笑)。

関連:絶望の日々 - 「魔法先生ネギま!」論(と今週の感想)
   ネギま!で遊ぶ 96話解説


 要旨だけまとめると、

  • エヴァ・・・強さと幸せは両立できない。両立させようとした場合は、どちらかが必ず傷付く
  • 刹那・・・強さと幸せを「融合させた上で」両立させたい
  • ネギ・・・強さと幸せを「なるべく融合させずに」両立させたい
  • 明日菜・・・難しい話だけど多分大丈夫(笑)

こういう認識を各自が持っているということかな、と。
 まだ若い人は「強くなると、傷付く」という言葉の意味が良く分からないかもしれませんけど、「出る杭は打たれる」という諺があって、それなんか分かりやすいですよね。


 例えば、最近でも「大手サイトが相次いで閉鎖」のアレとか。
 進歩や発展や変革っていうのは、それだけ破滅に近付いているということなんだ、というのは色川武大阿佐田哲也)の基本的な考え方の一つですね。
 じゃあ、出ても打たれない杭になるには、どうしたらいいか。

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 赤松健経由で色川武大に興味を持つ人が増えてくれるといいなぁ、とちょっとだけ期待したり(赤松さんの好きな作家が阿佐田哲也なので)。