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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

『からくりサーカス』最終章問題

 以前、43巻についてチラッと書いた

「しかし電話で何度もネタにしたけど、このページとこのページは気になりますよね」
「この時点の勝さんは逃げる気マンマンですからね」
「どう見ても、グリュポン君と別れるのが悲しいのであってフェイスレスを置いていくのが悲しいわけではない(笑)」
「誰もツッコまないのかなぁコレ」


 さてどのページの内容について語った会話でしょう?

という問題について、あんよさんから回答を頂きました。

その箇所はp.196とp.198-9の間のずれですかね。ぼくも読んでて最初「あれ?」と思いましたが、ええと。マサルフェイスレスに感情移入するのは、今までの経緯を思い返すとかなり困難であり(マサルが自分自身の中に暗黒の太陽をはっきりとは感知していない)、一方フェイスレスマサルを、弟である自分の鏡として、そして兄の鏡として、理解してしまっている。この相手理解のずれからすれば、マサルフェイスレスのために泣くことができないのはやむをえないことなのかな、と思います。

 シーンの箇所についてはその通りです。
 で、心理描写についてもその通りなんですよ。問題は、p.196における3コマ目(=勝を突き放すフェイスレス)と、その真下に置かれた5コマ目(=号泣する勝)が、「演出的に繋がってるようにしか見えない」(=フェイスレスとの別れを悲しんでいるように読めてしまう)ということの方なので。
 つまりp.198-9まで読み進んだ後、改めてp.196に戻って初めて3〜5コマ目間の「繋がり」がミスリードである(=フェイスレスを置いていくのが悲しいわけではない)ことに気付くんですが、それって「演出的には何の意味も無いミスリード」だとしか解釈できないんですね。*1だから「おかしいな」と。


 こういう「客観的に行間を補完すれば矛盾は見あたらない」けども……、「心理描写が断片的あるいは間欠的すぎて、感情的に読者がノれない」という描写が最終章はあまりにも多く、我々*2を悩ませる要素の一つになっています。
 今回の「p.196問題」はその最も顕著な例、というだけでして、他には「えんとつそうじの正体(再会した勝)を初めて知った時に、何のリアクションもさせてもらえない鳴海」などが挙げられています(なんか学会報告みたいだな)。


 最終章に頻発する「破綻しているという程でもないが、画竜点睛を欠いている為に読者の感情がノらない」という、この描き方は「物語の消化はしているが、昇華はしていない」という評され方で総括されてもいます(関連)。
 まぁ、それほどクライマックス執筆時の、作者の環境があらゆる意味で(スケジュールや残り頁数、編集部からのお達しなど色々)テンパっていたのかな……と作者寄りの事情を考えなくもないのですが。でも、そういう外部的な理由で作品のポテンシャルが「昇華」させきれなかったのだとしたら、読者としては悲しいわけで。
 あんよさんが43巻を読んだ時の「ほとんどたたみきるあたりはさすがです」という評価も、ぼくにとってみれば「消化としての畳みかけ」に過ぎない、という観点の差があるのだと思います。


 昇華されなかったものとは何かと言えば、やはり最大のものは「ダブル主人公制」の放棄でしょう。作者は、最終的に鳴海を主人公の座から「降ろす」ことで勝を主人公として「立たせ」ようとしましたが、その選択自体に破綻は無い(それはそれでドラマになってはいる)ものの、物語が示していた方向性と慣性をキャンセルしてしまう選択でもあるわけで。
 「鳴海は主人公の座から降り、勝にその座を譲った」という終わり方ではなく「主人公である鳴海が、次代の(もっと凄い)主人公である勝を送り出す」という流れでないと、あのエピローグに繋げようが無いと思うのですが……。


 しかも作者は43巻のあとがきで「描き残したものは何もありません」と言い切っているわけです。大人として言い訳行為は拒みたいんだろうけど、そこはむしろ悔しがってくれ(笑)。
 なので「やっぱり、後1,2巻は続ける必要はあったよ」と思わずにはいられないわけです。さもなくば「3巻のラストと43巻のエピローグを繋げれば綺麗に終わる」理論になる*3、と。


 こういう議論を、完結後から飽きずに延々続けています。仲間募集中です。

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追記

 あんよさんのコメントの後半、

マサルはまだ自分の中に潜む闇を自覚できていないとすれば、彼はやはり非常に偏ったかたちでしか成長できていないわけであり。だからこそ、そんな純粋な成長を遂げてしまったマサルを前にして、フェイスレスはもはや一人の兄=大人として、その身を挺してやるしかないという。

そう、まさにそこなんですよ! 少年のままインフレ的に成長してしまった勝に対して、鳴海はまだ何か、大人として道を示してやることができた筈なんですよね。でも勝は完全に鳴海を蹴落とした形で、何も言わせないくらいに彼を「乗り越えて」しまっている。
 勝がやるべきことは、鳴海を主人公の重責から解放して「救ってやる」ことではなく、一度歪んでしまった彼を主人公の位置に「戻してやる」ことだったと思うんです。そうすることによって、勝も「鳴海を継ぐ主人公」として完成する用意が整う筈で。

*1:上手く説明がつく新解釈があれば是非教えてほしいかと

*2:といっても、からくりの愛読者が数人集まって、飲み話をしたという程度の「我々」ですが

*3:つまり「真夜中のサーカス編」あたりを無かったことにしてしまった方が、作品トータルで見た場合は良い、という結論