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【漫画論】「キャラ・コマ・言葉」という分類には、どんな意味があるのか

 今年の8月1日、夏目房之介先生が花園大学で行った講演に「ヘンなマンガたち 〜マンガを成り立たせるもの〜」というのがあってぼくも聴講していたのですが、今回はその講演内容にからめた話をしたいと思います。


当日は、竹熊健太郎さんが「たけくまメモ」でも公開されている「絵のないマンガ」などを紹介しつつ、あえて「漫画らしくない漫画」から「漫画とは何か」を問いかけていくようなお話がメインでした。

  • 坪井慧「放課後、雀荘で」より
  • 増田拓海「解答用紙は別紙」より

「絵・コマ・言葉」と「キャラ・コマ・言葉」の迷い

 日本の、旧来的な漫画論では「絵・コマ・言葉」を漫画(※現代のマンガ)の条件と考える傾向があります。
 たとえば「放課後、雀荘で」という作品に対しては、

マンガの定義 「絵・言葉(・コマ)」で構成される表現 →絵がない →コマはある
 絵はないが「キャラクター(登場人物)」は読者に伝わる お話がある マンガでは?

……とレジュメで理論展開されているように。
 ここの「絵はないがキャラクターは読者に伝わる」というフォローは、伊藤剛さんが『テヅカ・イズ・デッド』という本で、「絵・コマ・言葉」に変わる分類項として「キャラ・コマ構造・言葉」を提案していたことが思い出されるものです。

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  • この本の段階では、そこまで深く理論を突き詰めてはいないんですけどね


 当日のレジュメの後ろの方では、

中心的なマンガ表現の形式とは何か? 絵・コマ・言葉 → 絵・キャラ・言葉

……とも書かれていますが、この定義がけっこう曖昧なところなんですよね。「キャラ・コマ・言葉」じゃなくて「絵・キャラ・言葉」になっていたりと、研究者間の「迷い」が感じ取れるポイントでもあります。
 そもそも、とらえどころのない話ですから。


 そんな講演を聞きながらぼくが考えていたのは、この分類における「絵」や「コマ」というのは、もっと突き詰めれば「空間」を指すのではないか? その方がより本質的ではないか? ということでした。
 ここでいう「空間」というのは厳密には、「運動の可能な空間」のことです。三次元空間でも二次元空間でもいいんですが、しかし運動があるということは当然、「時間」の軸も存在する「時空間」の成立を志向することになります。


 ならば最初から「時空間」と呼べばいいかもしれませんが、本質的に重要なのは「運動の可能性を含む」空間であることの方であって、時間はその副産物である、という風に考えます。


 で、「絵」というのは非常にあいまいな概念で、まず「文字も図像でしょ、絵でしょ」というツッコミが以前からされてきましたし、「写真は?」というクエスチョンにも応えていかなければなりません。そんな面倒な概念だから、研究者の間でも、取り扱いに迷いが生じやすいのだと思います。


 そこで「絵」の代わりに「空間」を当てはめて考えてみると、くだんの「解答用紙は別紙」という作品が、「やはり漫画とは呼びづらい作品なんじゃないか……」となんとなく感じる理由も明らかになってきます。
 同時に、その漫画らしくない作品を、「漫画っぽくする」工夫も考えることができます。


 漫画っぽくない、と我々が感じてしまう根拠は、「空間」が存在していないから。あの作品の原稿に含まれているのは「問題用紙そのもの」あるいは「ラクガキのキャンバスそのもの」だけであって、画面内で「何かが運動する」ことを許す空間の広がりはありません。
 いくら人間風の絵が描かれていても、その図像は「紙面上の空間内」を動き回ることもありません。
 絵が「鉛筆で書き足され」たり、「消しゴムで消され」たりすることを運動とは呼びません。ラクガキされたキャンバスがそこにあるだけです。*1



 ちなみにこの、「キャンバスとイコールな“画面”」と、「運動の可能な空間としての“画面”」がどう違うのか? どう重なっているのか? という思考実験は夏目さんがまさに好みそうなテーマで、機会があれば詳しくお訊ねしたいポイントでもありますね。

  • こういう実験漫画で示そうとしていることなんかがまさに。「スケッチブックに描かれた“ただの描線”」と「スケッチブック内を運動する“動く存在”」が同時に成立しています


 ええと、「解答用紙は別紙」の問題に戻りますが、ではあの作品に「空間」を与える工夫、というのを考えてみたいと思います。
 たとえば……。あの問題用紙にほんのちょっと角度をつけてから「撮影」(欲を言えば、ペンによる再現描写)をするだけで、「画面=キャンバス」が一致してしまうような原稿ではなく、「画面内に空間を持つ原稿」が成立するはずです。
 つまり、ちゃんと「教室や机というスペースの中に問題用紙がある」という空間の演出が「漫画らしさ」には必要で、原稿のフレームが(絵画論でいう)「別の空間へと開かれた窓」として機能する必要がある、ということです。*2
 その点、空間の奥行きが表現された「放課後、雀荘で」の方は、かなり「漫画っぽい」と感じられるわけです。


 ここから「キャラ・言葉」を補完する要素を突き詰めていくと、「空間」になるのではないか、と考えられます。「コマ」も結局は「空間に開かれた窓としてのフレーム」を指す概念ですから、空間=コマだし、コマ=空間と思っていいでしょう。


 すると、「キャラ・コマ(空間)・言葉」という並びになりますが、自然と「キャラ」が意味することの本質にも思い至るようになります。


 それは「同一性」です。


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 同一性については、吾妻ひでおの『狂乱星雲記7 霧の町』を引用した夏目さんの解説が示唆的でした。もし仮に「同じような場所」の描写を同作品内で連続させたとしても、最初に出てきた「とある場所(の絵・コマ)」が、次に出てくる「同じような場所(の絵・コマ)」と連続しているのか否か? という問いを保証するものがありません。
 映画のような時間的連続を前提としない「漫画」では、コマ同士の繋がり(連続性)を保証するために、何か別の仕組みが要るようになります。その何かが無ければ、読者にも空間の見分けがつかない、とも言えます。


 だから同一性を担保するために「キャラ」が必要なのではないか……? というのが「キャラ・コマ・言葉」の分類から発想できることでした。
 そこで、どうせ「コマ」の本質を突き詰めて「空間」と捉え直すのなら、「キャラ」もその本質を突き詰めて「同一性」として捉え直した方がいいのでは? という風にも考えていけます。


 例えば「風景漫画」があった場合、従来の議論では「これは、山そのものをキャラ化してるわけで……」などと説明する恰好になりますが、そんな回りくどいこと言わなくても、「1コマ目に出てくる山と、その後の5コマ目に出てくる山。これは同じ山だとわかる絵になっています」「これこそがキャラです」と言えば、それはたぶん「漫画として成立していること」の説明になるような気もします。


 つまり「空間」と「同一性」を組み合せることによって自然と「時間と運動」も発生するのであって、あとは「言葉」が加われば、現代的な「ストーリー漫画」を成立させる条件も揃うでしょう。


 また、先述した「文字も図像でしょ」というツッコミに対しても、明確に切り返すことが可能にもなります。例えば、「A」というアルファベットは同じ形をしているかぎり「同じ文字としてのA」だと認識されますが、それは「最初に記されたAと、次に記されたAが、モノとして同一物であることを意味しない」ということでもあります。


  • つまり、この夏目さんの作品を借りて説明すると、右のコマ(というか空間)に描かれたキャラ絵と、左のコマに描かれたキャラ絵は「同一の存在」です
  • この次のコマでまたこのキャラが描かれれば、それもやはり「同一物」とみなされる。ただの図像をそう認識させる仕組みが「キャラ」の性質です(そして「キャラ」が担保する同一性によって、「右のコマの部屋」と「左のコマの部屋」が実は「同じ部屋」であり、そのコマ同士のあいだに「時間が流れている」ことまで保証します)
  • しかし下側に書かれた「4」という数字は「言葉」であって、「キャラ」の性質は持ちません。例えば「4 4 4 4」と4が連続しても、それぞれが別の4とみなされるか、四桁の「4444」として認識され直されるはず。そのように「繰り返し登場しても、同一物であることを意味しない」ような文字や記号が「言葉」に分類できるということです


 整理すると「キャラ(同一性)・コマ(空間)・言葉」という並びになりますが、正確には

「キャラという同一性・その同一物によって貫かれる空間(コマ)・それらに対する言葉」


……という風に、後ろから前に付加されていくような補完関係も考えられるかもしれません。

 さて、ここまでは私見をまとめてみただけですけど、これがだいたい「キャラ・コマ・言葉」理論の核心のはずだ。と感じてはいます。もちろん、異議や反論もお待ちしています。

上京振り返り日記 - ピアノ・ファイア

 この日は、東北大学の岩下朋世さんも日帰りでいらしていて、漫画論の世界でなんとなく通用している「キャラ・コマ・言葉」の三分類について一緒に異議を唱えるなどしていました。
 「キャラ」と「コマ」の定義をもっと限定的にした方が、核心的な分類になるのではないか? キャラというのは「絵と絵の同一性を担保できるもの」をそう呼べばいいのであり、コマとはシンプルに「空間」を意味すると考えれば、複数の「コマ(=空間)」の中を「キャラ(=同一物)」が貫くことによって時間が必然的に生まれると考えられて……かくかくしかじか。
 ここらへんは夏目房之介さんの講義「ヘンなマンガ」に触発されて(特に吾妻ひでお論に)、ぼくが個人的に考えていたところであります。

*1:ただ、どんどん増えていく書き込みに独特の「生気」を錯覚する所もあって、それを「動き」と感じることもあるが、表現としての絵はやはり「動いて」いない

*2:「画面」と「問題用紙」をイコールにせず、「空間」を感じさせる演出は、他にもっと簡単な方法もある。台詞をフキダシにして問題用紙の上に被せてしまえば、一気に「空間のレイヤー構造」が出現し、つまりフレーム内に「遠近の奥行き」が生まれる、など