限定倫理性のメカニズム:なぜ倫理的だと思っている人が非倫理的な行動をしてしまうか

企業の不祥事や政治家による失言など、モラルに欠ける非倫理的な行動がもたらす事態がしばしば起こります。一方、私たちの多くは、自分は平均以上に倫理的であるという判断する傾向があると言われます(全部足し合わせて平均以上になることはありえないのですが)。このようなことから考えられるのは、多くの非倫理的行動は、自分自身はそれほど非倫理的ではない(少なくとも人並みには倫理的である)と思っている人によってなされている可能性が高いということです。このような状況の背景にあるのが、人間が持っている「限定倫理性」のメカニズムだということを、Tenbrunsel, Diekmann, Wade-Benzoni & Bazerman (2010)は指摘します。Tenbrunselらによると、限定倫理性とは、サイモンによる「限定合理性」になぞらえた概念で、人は、自分は倫理的である、あるいはそうありたいと思っていても、実際には自分の倫理基準に反する行動をとってしまう傾向があるという法則・メカニズムを指します。


Tenbrunselらは「私たちは、普段は自分は倫理的だと思っているが、実際の行動場面では非倫理的になってしまう。しかし、その行動の後でも、自分は倫理的だと思っている」というように、行動の前後を通じて自分が非倫理的な行動をしているという自覚が薄いために、実際の非倫理的行動が是正されにくいといいます。なぜそのようなことが起こるのかというと、私たちの内面には、「こうあるべきだ」という自分と、「こうしたい」という自分という2つの自分が同居しており、自分の行動を予測したり、自分の行動を振り返ったりするときには、理性的・合理的かつ理想追求的な「こうあるべきだ」という自分が思考をコントロールしているのに対して、実際に行動するときになると、感情的衝動・現実主義・動物的本能などに支配された「こうしたい」という自分が顔を出し、「こうあるべきだ」という自分を押しのけて行動してしまうからだと主張します。Tenbrunselらは、これを「行動場面における倫理性の後退(ethical fading)」と呼びます。また、このような倫理性の後退は、その人を取り巻く状況によって引き起こされることが多いと言います。


上記のような限定倫理性のメカニズムには、多くの心理学的な証拠があるとTembrunselらは言います。まず、人間は、将来の自分の行動を予測する際に、多くの心理的なバイアスに影響され、必要以上にポジティブな予測をしてしまうという「将来予測エラー」が起こります。例えば、私たちは、必要以上に自分の倫理性を過信したり、楽観的に将来を予測したりします。つまり、倫理性が問われるある特定の場面に遭遇したとき、実際の自分以上に自分は倫理的に行動できるという自信や楽観性が優位になるわけです。また、私たちは、遠い将来になればなるほど、具体的・個別的にではなく抽象的・一般論的に考えるようになり、具体的であるがゆえに現実主義的な思考をするのではなく、抽象的であるがゆえに理想主義的な思考をするようになります。したがって、自分の行動予測も「自分ならこうするだろう、こうしてしまうかもしれない」という現実的予測ではなく「自分ならばこうするべきだ」「自分はこうありたい」という理想主義や自己保身・自己奉仕欲求に影響された希望的予測を行うことになるのです。このようなメカニズムによって、普段私たちは、自分は少なくとも人並みには倫理的だし、実際に倫理的に行動するだろうと思うわけです。


しかし、実際に倫理性が問われる場面で行動する際には、状況が一転してしまいます。実際の行動場面は具体的な状況に埋め込まれており、その中で、特定の行動に対して倫理性が問われるという意識が薄らいでしまう可能性が高まります。例えば、多少非倫理的な行動をしてもそれに起因する悪影響は小さく、そのような行動をしない場合に実利的にデメリットがある場合です。このような場合、本人の頭の中では、損得勘定や打算的発想が優勢されてしまい、倫理的な発想が後退してしまいがちです。その行動は得か損かという損得勘定や経済的合理性に左右されて行動する場合、その行動には倫理性が問われるという意識がされなくなってしまい、その行動は良いか悪いかという倫理的判断無しに行動することになります。結果的に、経済的なメリットはあるが自分の倫理基準に反している行動をとってしまうことになります。実際の行動場面では、明らかに倫理性が問われるという場合もあって、その場合には行動に際して明確な倫理判断が伴いますが、そうではなく、その行動に倫理性を問われるのかどうかが曖昧であるケースも意外と多いのです。また、実際の行動場面では、短視眼的な動物的防衛本能や感情に支配された「こうしたい」という思考が優先され、無自覚的・突発的に行動してしまうケースも多くあります。この場合も、行動の際に倫理判断が行われず、結果的に非倫理的行動をとってしまう可能性が高まります。


Tenbrunselらは、私たちは非倫理的な行動をとってしまっても、後でその行動を振り返るときにも心理的バイアスなどによって、自分の行動が非倫理的であったと自覚しにくくなる証拠も提示しています。例えば、私たちは、自分は正しい人間だと思っていたいので、仮に非倫理的行動をとってしまったとしても、意識的あるいは無意識的にそれを取り消す「物理的・心理的洗浄」を行うことを示唆します。例えば、非倫理的な行動を補うような行動を後でしたり(物理的洗浄)、特定の行動は自分の非倫理性に起因するものではなく、他の避けられない要因によるものだったと帰属したり、自分の行動を正当化したりします(心理的洗浄)。また、私たちの記憶はだんだんと色あせ、記憶の内容がだんだんと抽象的になり、具体的な状況を忘れていきます。そのような抽象的な記憶にたいして、その正当性を支持するような他の記憶や情報が加わることにより「自分の行動はおおよそは倫理的なものであった」という態度が形成されるようになります。これらのメカニズムには、私たちの自己保身的・自己奉仕的な欲求や、記憶の可塑性が影響しているわけです。さらに、私たちは、特定の倫理基準を若干下げることについてはそれほど抵抗感を持ちません。「これくらいの小さな逸脱ならば、あえて非倫理的だとは言わないだろう」「他の人もやっているから大した問題ではない」というように、求められる倫理的な行動基準のバーを下げるわけです。しかし、これが繰り返されるならば、どんどん倫理性基準のバーが下がってしまい、いつしか、明らかに非倫理的な行動であっても、本人から見たら許容範囲、非倫理的ではないという判断につながりかねないでしょう。これらのメカニズムから、実勢に非倫理的な行動をしたとしても、なお、自分は倫理的な人間だという自覚を維持することになるわけです。


上記のような「限定倫理性」のメカニズムが顕在化している限り、私たちが無自覚的に非倫理的行動をとってしまう可能性はなくなりません。したがってTenbrunselらは、これらの限定倫理性メカニズムを十分に理解したうえで、それらを防ぎ、非倫理的行動を抑制するようなアドバイスを提示しています。例えば、自分の行動を予測する際に「こうあるべきだ」という自分のみならず「こうしたい」という自分に耳を傾ける機会を作る、実際に行動する際には「こうあるべきだ」という自分を呼び起こし「こうしたい」という自分を抑制するような工夫をする、過去の行動を振り返るさいに、過去の記憶や解釈を歪めるようなメカニズムの発動を抑えるような工夫を行うなどです。

参考文献

Tenbrunsel, A. E., Diekmann, K. A., Wade-Benzoni, K. A., & Bazerman, M. H. (2010). The ethical mirage: A temporal explanation as to why we are not as ethical as we think we are. Research in Organizational Behavior, 30, 153-173.