「タナトスの子供たち―過剰適応の生態学」中島梓

やおい腐女子に関する考察の本なんだけど、後ろの方は飛躍して依存症とか社会病理について語る本になっている。(社会病理とかはあまり根拠のない著者の主張のようで、疑問に感じるところも多々あり、あまり間に受けなくてもいいかなと思った。)


著者の中島梓は別名義(=栗本薫)でやおい作品を書いていた人で、「やおい創世」に携わった一人であるらしい。
やおい誕生」「やおい創世記」に関しての考察は読む価値があったと思った。でも納得はしきれないし、的外れな部分もあったと思う。それに、やおいが誕生してそれに反応した女子がいて数が増えて勢力を増して、とここまでで、ここから先のやおい女子についての考察はほぼない。つまり、初めにやおいが既に一ジャンルを形成してあるものとして認識した世代については触れられていない。
最初の方が特に「(爆)」「(ぉ」などが語尾に付く、セルフ突っ込み系な書き方をしているので、読むのが疲れた。余計な話が多いし、もう少し論理的にすっきりまとめて書いてほしいと思った。

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

タナトスの子供たち―過剰適応の生態学 (ちくま文庫)

やおいオタクとBLファン

ちょっと思いついたので書いてみる。


やおいは、二次創作いわゆる同人で「やまなし、おちなし、いみなし」のホモ妄想。妄想を具体化すると同人誌などの作品になる。現在では作品にするにあたって、山やオチや意味が付加される場合が多い。(やおいが誕生した頃には、それこそ「やまなしおちなしいみなし」(例えばエロシーンのみの)の作品があったと思われる。)
ボーイズラブは、一次創作でストーリーがあるホモ妄想(といったら失礼かもしれないけれど他の言葉が見つからない。偽ホモ?ホモファンタジー?)作品。商業誌も同人誌もあり、同人ではオリジナルJUNE*1というジャンルとして扱われる。JUNEと同意、もしくは派生形。(ここらへんの区別が私にはあまりつかないのだけど、ホモであることによって社会から抑圧を受ける、もしくは内在化した社会によって罪悪感を感じる主人公達のストーリーがJUNEで、さほど抑圧や罪悪感がなくホモなのがBLという意見もある。)


やおいオタクとBLファンはどちらも「カテゴリ:腐女子」だけど、そこには決定的な違いがある。原作とそれによる妄想の有無だ。
やおいオタクは、原作(もしくは人物)を好き過ぎて、原作などのキャラクターを操り、妄想してしまう。(どうしてホモになるのかはわからないが。)そしてその妄想が原作や原作者、原作ファンを冒涜するようにも思えて、妄想をしてしまう自分に強く罪悪感を持っているように見える。大半が二次創作者であり、厳密に言うと二次創作者でない人も妄想する人ではある。
BLファンは、BL作品のファンで、妄想することはない。BL作品そのままで満足できる。罪悪感といえば、世間では後ろ指差されるような特殊な作品を好きで買っている自身に。冒涜する原作がない(BL作品は最初からホモ妄想なので)わけだから、やおいオタクに比べて罪悪感は少ないと思われる。
2chの801板を見ていたところ、腐女子は、やおいオタク兼BLファンが大多数に見えたんだけど、同人はやるけどBLは読まない、またはBLは読むけど同人は知らないまたは興味ない、という人も確かにいる。
作品(人物)ファンという集合体の中に、同人オタク(二次創作する人、妄想する人)という集団が包含されていて、同人オタクの中に、やおいオタクが包含されているという図式だと思うのです。BL作品で二次創作する人はあまり見ないけれど、いたとしたらそれは同人オタクとしての性質だと思う。


やおいが誕生した当時の腐女子は、ここで言うやおいオタクがほとんどだったようだ。やおいの後からBLが出来たものと思われる。
やおいオタクは罪悪感から、自身を自虐的に腐女子と呼んだ。BLファンはそこまで罪悪感がないけども、世間ではあまり認められない好みという認識はあるし、やおいオタクが罪悪感を持っているし同類(だと思っているBLファン)にも同じ行動を要求するから、その行動に倣っているのかもしれなかった。


上記のやおいオタクの説明は『タナトスの子供たち』を参考にしたものであるが、最近のやおいオタク、というかやおいものの二次創作者は少し様相を異にする。
一見やおいオタクに見えるが、実はやおいオタクとしての成分は薄いような二次創作者も実在すると思う。原作に対して、それほど思い入れがなく、原作が流行っているから、キャラの外見が好きだから、キャラが書きやすいから、または同人をやってみたいから、やり続けたいから、友人との付き合いのために仕方なく、という理由で二次創作する人もいると思う。同人、果てはやおいがメジャーになった弊害かもしれない。(ネット普及で目に付きやすくなったとか。)(同人に入りやすくなるということは、やおいを目にしやすくなるということ。)
だから、最近の二次創作者は罪悪感が少ない場合がある。原作に対する思い入れがなければ、罪悪感は少なくて済むわけだ。それに、メジャーだからやおい妄想しても良い理由にはならないが、多くの人がやっていることなら、自分だけ特に罪悪感感じることもないよね、となることもあると思う。
あるいは、シミュラークルとデータベース消費*2に移行したのかもしれない。(やおいにおける萌え要素は、例えばシチュエーションとか、王道的なパターンのことじゃないかなーと思う。)この場合でも、罪悪感はあまり持たずに済むような気がする。萌え要素を作り出したのは先人たちであって、彼女らではないからだ。彼女らはキャラを萌え要素に当てはめて消費するだけだから、罪悪感はあまりないのかもしれない。


最後に自分語りですが、私はたぶんBLファン寄り。同人では買い専*3で、同人誌を原作というキャラ設定がある一次創作として読んでいるっぽい。コミケなどでも、やおいオタクと違って、特定のジャンルやカップリングに拘らずに、特定の作家をジャンルが変わっても追いかけるようなことをしている。これは作品の読み方としてはBLオタクと同じ目線じゃないかなという気がする。
上記の定義や考察に関して、意見や反論がある方はぜひお知らせください。

*1:「ジュネ」と読む

*2:東浩紀動物化するポストモダン」より

*3:描いたり売ったりせずに同人誌を買うという参加者