パンチェン・ラマ

 ダライ・ラマチベット人にとって「太陽」であるのに対してパンチェン・ラマは「月」であり、阿弥陀仏の化身と言われる高僧です。
 1959年、ダライ・ラマがインドへ亡命した後、1962年、パンチェン・ラマ10世は毛沢東に7万言の意見書を提出し、中共政府の政策を批判しました。このため投獄され、80年代まで軟禁状態にされます。
 パンチェン・ラマは1979年に漢民族の女性と結婚し、一女をもうけます。中共は「チベット族と漢族の架け橋」と宣伝します。パンチェン・ラマの派の僧は結婚してはならないことになっていましたから、中共の謀略でしょう。
 パンチェン・ラマは恥辱にまみれながらも文化大革命で破壊されたチベットの寺院の再建に力を尽くします。 中共ダライ・ラマパンチェン・ラマの関係を悪化させようと企みますが、1985年モンラム祭をラサで祝う集会の席で、パンチェン・ラマはこう語っています。

ダライ・ラマ法王と私は、精神的な絆で結ばれています。法王と私は一心同体なのです。世の中には私たちを対立させようともくろんでいる人がいるようですが、それは無駄な骨折りです」

 1987年3月、北京で開かれた全人代チベット自治区常務委員会において、パンチェン・ラマは、教育、経済開発、移住、チベット人への差別待遇などについて、中国政府のチベット政策をあからさまに批判します。
 1989年1月24日には、中国によるチベット支配をシガツェで再度非難し「チベットは中国から得た恩恵よりも中国によって失ったもののほうが大きい」と述べます。このとき中共政府が用意した演説原稿を無視して演説したといわれており、この歴史的な反中声明を出してからわずか4日後、パンチェン・ラマ10世は謎の死を遂げます。

 パンチェン・ラマ10世の死後、チベット人僧侶によって1995年後継者の6歳のニマ少年を探し出し認定します。しかし中共政府は別の少年を転生者として11世としたのです。2008年のチベット騒乱で「愛国的メッセージ」を述べたのは中共の造ったパンチェン・ラマであり、本物のパンチェン・ラマ中共によって両親と共に隔離されています。



参考文献
 「チベット問題を読み解く」大井功著
 「アジアの試練 チベット解放はなるか」櫻井よし子編
   『中国に操られた朝日のチベット報道』酒井信彦
参考サイト
 ダライ・ラマ法王日本代表部事務所
   パンチェン・ラマ10世 http://www.tibethouse.jp/history/panchen_lama.html


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