韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった 〜 ベトナム大虐殺

残忍無比。ベトナム大虐殺。




「ダイハーン」・・・「ダイハーン」・・・

 90年代半ば、ノンフィクション作家の野村進氏がベトナムのカイホンホア省ニンホア県ラクアン村を訪れたとき、道端で笹餅や果物を売る老婆たちが上目遣いに「ダイハーン」とささやいてきました。

通訳「ダイハーン(大韓)じゃないですよ。ニャットバーン(日本)ですよ」

老婆「日本人なんて言ったって、ほんとはダイハーンだろ」

 この村はベトナム戦争のとき韓国軍による住民無差別虐殺事件がおきた村でした。

村の証人
「ちょうど朝飯くって、ひと息いれているときですよ。。いきなりダイハーンのやつらが入ってきて、もうバババーッて滅茶苦茶にぶっぱなしやがってよ。おやじとおふくろ、それと妹が三人いたんだけど、みんな死んじまって・・・おれもやられて、そのとき気イ失ったんだろうなあ・・・」

 昭和39年(1964年)8月、トンキン湾北ベトナム海軍の魚雷艇によるアメリカ海軍の駆逐艦への魚雷攻撃事件(トンキン湾事件 一部はアメリカのでっちあげ)を口実に米国がベトナムに本格介入しました。ベトナム戦争です。この戦争に韓国は米国からの特需や援助を得て経済発展を遂げるため、のべ32万人もの兵を派兵しました。軍民とも「ベトナム行きのバスに乗り遅れるな」が合言葉でした。

 ベトナム戦争で有名な住民虐殺は昭和43年(1968年)3月16日の米軍ソンミ村虐殺事件が挙げられますが、最も残虐だったのは韓国兵だったと言われています。

 南ベトナムクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村の虐殺、ハミの虐殺、ゴダイの虐殺、タイヴィン虐殺をはじめ、村々で化学兵器まで使用して住民を殺戮しました。

ベトナム人の証言
「遠くでタイハンが私たちを呼んで手まねきした。かれらは手にアメを一握り持っていたので、私たちはわれ先にももらおうと走っていった。しかし私たち近づくと、アメをもっていたタイハンは笑いながら銃をとるや、いちばん先に走ってきた子どもの頭めがけて引き金を引いた。そうやって先にいった子どもが三、四人死んだ。私は殺されると思って逃げた。あれが果たして人間なのかと、身震いしながら走った。私たちは、大きくなったら必ず韓国からきたあの悪魔に復讐するのだと、なんどもなんども約束した」

韓国人の証言
「後輩のひとりが今年軍隊を除隊しました。後輩の話によれば、彼の部隊長は、ベトナム戦争のときに自分の部隊が村を丸ごと焼き払い、住民全員を撃ち殺したと自慢げに語っていたということです。かれらは修道女まで殺したそうです」

 この種の証言はベトナムでも韓国でも何人かに尋ねてみれば数多く聞き出せるといいます。

 韓国軍の「フィアス・タイガー(猛虎師団)」「ブルー・ドラゴン(青竜師団)」が最も残忍無比だったと言われ、"索敵殺害" − "殺しつくせ、焼きつくせ、破壊しつくせ"という作戦の中で老若男女問わず赤ん坊まで殺戮しました。ベトナムの退役軍人の人は次のように語っています。

「韓国兵に会ったら、死に出会ったも同然だった」

 韓国軍はとりわけ女性にとって恐怖の的でした。韓国兵は残忍なやり方で女性をレイプしてから殺すのです。米韓軍が共同でベトナム人の結婚の行列を襲って花嫁を含め7人の女性を強姦し、結婚式に呼ばれた客の宝石を残らず奪った上、三人の女性を川の中へ投げ込んだという事件までありました。

 韓国軍によるベトナム人大虐殺は推定で30万人を超すと言われています。



参考文献
 講談社文庫「コリアン世界の旅」野村進(著)
 草思社親日派のための弁明」金完燮(著)
 新時代社「朝鮮 新たな危機の内幕」D・W・W・コンデ(著)岡倉古志郎(訳)
参考サイト
 朝日新聞 韓国軍も企業もベトナム参戦 http://www.asahi.com/international/history/chapter08/02.html
 ニューズウィーク日本版2000年4月12日号「私の村は地獄になった」
 WikiPediaベトナム戦争

添付画像
 韓国軍によるフォンニィ・フォンニャットの虐殺写真

<左上から>(J・ボーンアメリ海兵隊伍長撮影)パブリックドメイン
 犠牲者を収容するアメリ海兵隊
 両胸をえぐり取られた上に銃撃を加えられて瀕死の21歳の女。写真撮影後に病院に徹送されたが「お母さん、お母さん…」と母を呼びながら妹達の前で息絶えた
 アメリカ軍の手当を受ける負傷した少女
<右>
 殺害された子供

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