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J.マシア神父のブログ「手作りの考え方」

2017-06-26

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris laetitia第4章 結婚生活における愛(つづく)nn. 93-96

21:28

人によいことをし、お役に立つように気が利く態度

93. 人に良いことをするすなわち jrestéuetai という言葉遣いはこの箇所にかぎってめずらしいです。Jrestósという形容詞から従来する動詞です。jrestós とは善良な人を指すのですが、良い行いをもって自分の善良さを表す人という意味です。その前の節で言われているのです。

なお、前後関係を見れば、その他の節で言われている「善良さ、寛容、忍耐などはたんなる受け身の姿勢ではなく、積極的に人のためになる行動の仕方とつながっていることがわかります。ときには「忍耐」と訳されがちな「善良・寛容さ」はパウロにとってけっしてなにもしないでがまんするようなことではないのではなく、行動的にして創造的にひとのために役立つ行いを引き起こします。要するに、愛は人の為に良いことをし、気が効いて人に気遣って使える(servicial)のです。

94. パウロ文書全体においてあきらかになるように、愛は単なる感情的なものだけではないのです。むしろヘブライ語の「愛する」という動詞のように、「善を行う」という意味合いを含んでいます。

イグナチオ・デ・ロヨラが『霊操』で述べているように、「愛は言葉よりも行いにおいて示されるべきです」[106].行いをとおして初めて愛は実を結びます。行いにおいて愛は人に何かを与える幸せを感じさせます。ゆたかに自分自身を人に与えることにおいて愛の尊さと偉大さがあります。みかえりを期待せずに、報酬を請求せずに、愛はただで与え、ただで人に使えることを楽しみにしています。

妬みをいやす

95. 次に、慈愛に反対するから拒否されるべきものとして妬み(嫉妬、妬み、zeloi)があげられています。愛があれば、相手の善のために悲しむ余地はなく、むしろ相手の善のために喜ぶはずです(cf.使徒伝 Hch 7,9; 17,5:).

妬みは他者の善のための悲しみです。妬みの念をいだくときわたしたちは自分自身の幸福しか考えないで他者の幸せに対して無関心になってしまいます。愛は私たちを自分自身から出るようにさせ、妬みはわたしたちを自己中心的にしてしまいます。真の愛は他者の成果を評価し、自分への脅威としてそれを受け取らず、妬みに伴う苦い経験におちいりません。真の愛があれば人がそれぞれの良さを賜っており、それぞれの人生の道を歩むことが認められます。したがってしあわせになるための自分の道を探そうとしながら、他の人が自分たちの道をみいだすのを妨げないのです。

96. 要するに、神の掟で言われているように、「隣人のすべてのものをむさぼってはならない」(Ex 20,17)、 愛は各人を誠実に評価させ、各人がしあわせになる権利をもっていることをみとめさせます。愛していればその人を神のまなざしで見るようになります。神は「あらゆるものをわたしたちにゆたかに与えて楽しませます」 (1 Tm 6,17)という言葉を思い出しますが、相手が今良い時を過ごしているのを見てわたしも納得してよろこびます。

そして同じ愛によって促されて不正に対し憤慨します。愛に促されて社会でのけ者にされがちな人が排除されないように求めます。ある人が富んでいるのに他の人が飢えているのを見て耐えられません。排除されがちな人がせめてすこしぐらいの喜びを味わいたい、それは妬みではなく平等への渇きです。

2017-06-17

教皇フランシスコ著『愛の喜び』 第4章結婚生活における愛(つづく)nn. 91-92 

08:40

忍耐が伴う寛容

91. まず一番はじめに13、3節で注目される基調の言葉は「善良な寛容または忍耐」と訳されるギリシャ語のmakro-thymía すなわち「こころの広さ、腹の太さ」という語です。「すべてを耐え忍ぶ」ことだと訳せば、十分にその意味が伝わらないでしょう。(なお、「耐え忍ぶ」という言葉は最後に7節に使われています)。3節の「善良・寛容・忍耐」という言葉の意味は旧約聖書に出てくる「神の情け深さ」を表すために用いられる言い回しから従来しています。それは「神は怒るに遅く慈しみ深い」という神の憐み方の特徴です。 (出エジプトEx 34,6;民数記 Nm 14,18).

「苛立たず、人に挑発されて怒らさせられても、それにのっていかったりしないとき」、人は仕返しする欲望にかられずに、相手の攻撃を攻撃で返すことを避けるときそうした「心の広さ、腹の大きさ」が表れます。〔聖書では〕神と民の関係は婚姻の約束に例えられていますが、民が神を裏切っても神は民を裏切らない誠実さや約束への忠実を発揮します。そうした神の態度を家族生活の中で模倣するようにわたしたちは招かれています。

パウロは前述したmakro-thymíaの背後には知恵の書で語られている「神の情け深さ」のこだまが響き合います (cf. 11,23; 12,2.15-18)。神は怒るにおそく、人が思い直して痛悔し、心を入れ替える余地があるように待ちます。神は全能ですが、その全能を表すのは慈悲深さを通してこそです。神の忍耐は罪びとに対する慈悲深さを表してこそ証明されます。

92. 忍耐強い善良さ・寛容は、たえず虐待を受けても我慢するという意味では決してなく、身体的な虐待も物扱いされてしまうことも耐え忍ぶことではありません。どこに問題があるかと言えば、それは、わたしたちが相手との関係を理想的〔天使的〕であり、完全なものであるように要求するときや自己中心的に我を通そうとするときです。そんなときには自分に合わないどんな小さなことに対しても耐えられずに、すぐ攻撃的になりがちです。

〔怒るに遅い神様の忍耐を育てなければ、怒って反応するための口実はいつも見つけるでしょうし、共に生きる、共に生活することができない反社会的な人間、自分の欲望を抑えられない人間になってしまい、私達の家族は戦場みたいになってしまうでしょう。神の言葉は私たちを公戒めます、「すべての苦々しい思い、憤り、怒り、とげとげしい声、ののしりを、すべての悪とともに除きさりなさい」(Ef 4,31).

この善良さ(忍耐)を確立させるには相手がわたしと同じように、とともに生きる権利があり、あるがままの相手を認める必要があります。私にとって邪魔になっても、私の計画を妨げても、相手の生き方や考え方が気に入れなくても、また私はわたしが期待していたとおりの者ではないにしても、 [慈愛があれば]受け入れられます。愛はいつも情け深いものです。相手は私の期待どおりに振舞わないときにも、慈愛があれば相手を受け入れ、相手は私と同じようにこの世にあるがままの自分として存在すること認めることができます。

人によいことをし、お役に立つように気が利く態度

2017-06-16

教皇フランシスコ著『愛の喜び』Amoris laetitia(意訳・要約)89−90番

21:34

教皇フランシスコ著、使徒的勧告『愛の喜び』 第4章 結婚生活における愛

89. 結婚と家族〔における慈愛〕という福音を語るためには、ここまで〔本文書の第1.2.3章で〕述べたことだけでは、ものたりないでしょう。ここまで聖書に基づいた考察(第1章)、現状の光と影(第2章)、教会の伝統にみる結婚観・家族観に関する考察をしてきました。しかしそれだけでは、わたしが結婚と家族について述べたい〔つまり、その喜びと痛み、慈愛のすばらしさと、それが傷ついたときの悩みなど〕を表すためには、これまでの考察ではたりないということです。

今ここで一歩とどまって慈愛について語らなければなりません。というのも、結婚と家族生活における〔夫婦間の忠実および相互に与え合うこと〕という道を歩むように夫婦を励まそうと思えば、夫婦愛と家族愛が確立し、成熟し、深まるように育てなければならないのです。

事実、結婚の秘跡と呼ばれる恵みのおかげで、まずなによりも配偶者の慈愛を完成するように夫婦が強められます。(注104)。使徒パウロは神の恵みによって強められた慈愛の理想を次のように讃えています。「たとえ、わたしが山々を移すほどの奇跡を起こさせる大きな信仰をもってはいても、しかし私が愛をもってはいないなら、わたしは何ものでもない。たとえ、わたしが、わたしのすべての財産を貧しい人に分け与えたとしても、またもしもわたしが、わたしのからだを〔殉教者のように〕焼かれるために引き渡しても、しかしわたしが愛をもってはいないなら わたしは何の役にも立たない」。(1Co13, 2-3)だが、しかし、愛ということばは一番軽く用いられるものの一つですが、たびたびその意味が歪められています。(注105)

夫婦と家庭の日々の生活における日常の愛の姿。

90. では、パウロが書いた『愛の賛歌』を手掛かりにして考えていきましょう。(1Co、コリント前書 13, 4-7)。

«愛は−寛容であり、親切である−愛は。

愛はねたまず、愛は膨れ上がれない 〔自慢せず、高ぶらず〕、

ふさわしくない振舞いをせず〔さまにならないことをせず〕、

自分自身のものを求めず、

すぐに怒ることをせず、〔苛立たず、人に挑発されて怒らさせられても、それにのっていかったりしない〕

悪しきことをたくわえず〔相手が自分に与えた損害をいちいち気にしない〕、

不義を喜ばず、

しかし〔どこかに真実があれば、それが自分自身には直截関係しないことであっても〕真実をもっている者と一緒に喜ぶ。

愛は〔いつもゆずり〕いつも偲び、いつも信じ、いつも望み、

いつも〔倒れることなく〕耐え偲ぶ。» (1 Co 13,4-7).

人はこのような愛を家族生活の中で学び、育てます。〔愛に生きる〕夫婦の間、または、親子の間、日々生活を共有することによって慈愛の実践が行われます。

では、前述したパウロの言葉の意味を詳しく検討するだけのことがあると思うのですが。その理念を具体的にそれぞれの家族の事情に適用してみましょうか。  〈つづく)

2016-12-18

「聖霊と処女と名付け親」か、それとも「どの子どもも聖霊によって生まれるのか?

00:50

 今日は待降節の第4主日です。

 今日のミサの中心ポイントは「この子をイエスと名付けなさい、エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです。

 クリスマスの季節において、わたしたちは祝いのカードを見て、マリア、ヨセフ、幼子イエス聖家族の姿になじみが出ます。

でも、聖家族と呼ばれるこの家族から学ぶ命の誕生、母性、父性、名づけの深い意味をわたしたちは十分に把握しているのでしょうか。

当りまのようにわたしたちは教会用語を使って「マリアは処女ヨセフは名付け親、イエス聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれないが、処女性とは、名付け親とは、聖霊とは…と聞かれたら何を答えましょうか。

 実は、

 1)どの親もある意味で、名付け親でもある、里親のような面をもっていると言えます。

 2)そして、どの親も親になって初めてその処女性は深い意味を帯びてきます。

 3)さらに、生まれてくるどの子ども聖霊によって生まれると言えます。

 4)なお、first name を与えられてその名前で呼ばれるどの人間もかけがえのない尊厳を持っており、人間であるとか何々人であるとか、何々の特徴を持っているとか言うより先に、誰々という個人だと言わなければならない。どの人間も排除され、差別されるべきではない。

 ヨハネ・パウロ2世が述べたように「イエス様の誕生、ご降誕、クリスマスの祝いにおいてどんな人間の誕生ももっている深い意味が現わされています。(『命の福音』2)。

 では、その意味を深めるために福音書の朗読にはマタイとルカを合わせましょう。マタイの1、20から、ヨセフへのお告げ、ルカ1、31からマリアへのお告げを聞きましょう。

 ルカによる福音書、1、31では、お告げの物語が述べられています。マリアは目が覚めていたでしょうか、うたたねしながら夢を見たのでしょうか。真実を見つめさせる夢です。近いうちに結婚するようになるでしょう。それに対して望みもあり、不安もあるかもしれません。マリアに安心させるみ使いが現われます。み使いは言います。「マリアよ、恐れることはない。あなたはいのちをめぐまれる。あなたは身ごもって、男の子を生む。その子をイエスと名づけなさい」

マタイによる福音書1、20−21では、ジョセフへのお告げが語られています。夢の中ですが、彼に目覚めさせる夢です。ヨセフは近いうちにマリアを結婚で迎えるようになる予定ですが、それに対して望みも不安もあります。み使いは彼に安心させます。「マリアを迎え入れることを恐れるな。マリアは男の子を産む。マリアが身ごもる子は神の聖なる息吹によって祝福されます。あなたはその子にイエス(人を解放する方)と名付けなさい」。

 このようにルカとマタイを合わせて読むと気が付くのですが、マリア二もヨセフにも子供に名前を付ける役割と使命が与えられています。そしてマリアにもヨセフにも同じ二つのことが言われます。一つはあなたは方子どもを授かり、恵まれろ。もう一つは生まれる子供は聖霊によって生まれる。

 イエスの名前を選んだのは神様です。そのためにみ使いを通して伝えられる。それから、名前を付けるのは父親と母親の役割と使命だということです。(当時父親が名前を付けるのは普通でした)。父親も母親も新しい命・児玉を恵まれます名前を付けるでしょう。名前を名付けるというのは、つまりその命を受け入れ、育てることを約束するということです。どの父親と母親も、ある意味で、名づけ親・里親だと言えましょうか。

 そして、どの新しい命も聖霊の息吹を注がれて生まれます。どの子ども聖霊によってお母さんがみごもって聖霊によって生まれると言えます。その意味でどの親も神とともに協働創造者であると言えます。生まれてくる子供は親から生まれると同時に聖霊によって生まれるのです。その子供に親が名前を付けるすなわちその存在を受け入れ、これからもそのように育て続けることを約束します(その子に、社会に、神に約束します)

 それはどんな状況の中で生まれたにしても、どんな事情で親が名づけ受け入れたにしてもそのように言えるのですよ。(たとえば、正式な夫婦、そうでない同棲カップル、LGBTの者が受け入れた場合、生殖補助医療の助けによって対外受精や代理出産などで生まれた場合であっても。。。同じく言えます)。

 多くの場合、母親が受胎完了(着床後、対外受精の場合も着床後)のとき、自分の中で出来上がった命を受け入れ、父親は本来ならば母親の妊娠が無事に進んでいくときから、母親と一緒に、遅くとも誕生の際、その子を名付けます。名づけの時点で、その命を受け入れ、育てる約束をします

 要するに、どの親でも里親・名づけ親のような面をもっているということです。(男女が一緒になることによってまたは精細胞を提供することによって精細胞の結合を可能にする。精細胞が出会って受精の過程をたどって胚を作る。産みの親は自分の中へ着床してきた胚を受け入れて初めてそれが胎児になっていくことができます。胚が胎児になるためには聖霊の息吹が注がれます。そしてその生命はかけがえのない一人の人間になってゆくのです)。

 ところで、名づけの重要さについてもう一つの観点から考えることができます。生まれてからかけがえのない存在であり、値段ではなく価値をもっています。その価値はどんな場合でも失われない尊厳であり、尊重される権利の根拠です。したがって差別されてはいけないのです。犯してはならない尊厳です。その子供にはラベルを付けるのではなく、名前を与えるのです。

(この子はドイツ人とか日本人ですというより先に、この子は人間であり、人間の尊厳を備えていると言わなければならないのです。この子はヒトという種のDNAを持つと同時にこの子にしかない遺伝的特徴をもっているだれだれ(名前)です)。

では、この福音によってわらわたしたちは支えられ、励まされたのですが、今年のクリスマスにおいて自分の親たちに感謝したい。そしてどの人間も皆同じくかけがえのない尊厳をそなわっていることを自覚したいんです。そして生まれてくるすべての子どものために祈りたいものです。

 わたしたちはみなおやから生まれて聖霊によって生まれたのですからクリスマスの夜には親に感謝、神感に謝、命の為に感謝してグロリアを唱えたい。天にいとたかきところに神に栄光。

 わたしたちはすべての妊gンの命を大切にしだれも排除されない、だれも差別されないよノ中を作っていきたいものです。地上に平和があるように、平和を作るようにつとめたいものです。

あ 2016/12/24 12:53 マシア神父様、受精の瞬間に命が生まれる神秘を避けていませんか。おかしいですよ。「胚が胎児になるためには聖霊の息吹が注がれます」はおかしい。胚ができる受精の瞬間に聖霊が注がれます。どこで勉強されましたか。もし私が間違っているなら教えてください。お願いします。

MiyukiMiyuki 2017/06/17 08:19 あ様へ

生殖補助医療にお詳しいマシア神父様ですから、人工受精のケースが増えている昨今の状況を踏まえて、着床後の胚から聖霊の息吹が注がれると書かれたのではないかと察します。

着床できずに流産する自然流産や、着床しても、胞状奇胎となり、場合によっては、絨毛がんになるケースもあります。そのようなケースになった場合、聖霊の息吹が注がれているのになぜこのようになってしまうのか、理解することに悩みます。

2016-06-09 教皇フランシスコ『愛の喜び』8章試訳307−312

司牧の場で適応される慈悲の道理

307. 誤解がないようにことわっておきたいのだが、教会が神の偉大な計画である結婚に関する理想を提言しつづけるべきである。「若い信者たちは、婚姻の秘跡が彼らの愛の人生計画に与える豊かさを前にして、ためらうことがないように励まさなければならない。彼らがキリストの恵みによって支えられること、また十全な仕方で教会生活に参加し得るということによって支えられることを、彼らは革新すべきである」

 福音〔の教え〕を提示するにあたって、控えめすぎる中途半端な態度や相対主義に陥ってはならない。遠慮してこの理想を示すことをひかえれば、福音への忠実がたりないことになり、また若い人に対して教会の愛が足りないということになる。

例外的な状況に直面したとき理解を示すからといって理想の光をぼやかすわけにはいかない。またイエスが人間に示した高い目標をめざさなくてもよいということでもない。

現代においては失敗に対するケーアよりも、失敗を予防するほうが課題であり、結婚の絆を確立し、その断絶を予防することが重要である。

308. それと同時に、情状配慮(心理的、歴史的、生物学的)を考慮に入れる必要があるが、「福音的な理想を低くすることなく、徐々に現れる成長段階をみて忍耐と慈しみをもって人の歩みに寄り添う必要がある。わたしたちにとってできる限りのことをするように勧める主の慈しみの働きのために余地をのこすべきである。」

 混乱を避けたいと思ってもっと厳しいアプローチを求めている司牧者がいることがわかるけれども、私は正直に言ってイエスが教会に求めているのはそのアプローチではないと確信している。聖霊は人間の弱さの中で善の種を蒔く。

教会がその種を育てるように気遣うことをイエスはのぞんでおられる。親心のある教会は、客観的な教えをはっきりと述べながらも、自分に可能な限りの善を実現しようとする。たとえそれをする過程の中で道のどろに塗れる心配があるにもかかわらず教会はそうするのである。

 教会の司牧者たちは信徒に福音の理想と教会の教えを提供するに当たって同時に彼らを慈しみの目であつかうべきであり、早まった判断や厳しすぎる裁きなどをさけるべきである(cf. Mt 7:1; Lk 6:37) 。 イエスは、「人間の悲惨に触れ、苦しむ他者の身体に触れるよう望んでおられる。人間の悲劇の中心からは離れた避難所を個人や共同体に求めることのないよう、そして、実際に他者と接して、いたわりの力を知るよう期待しています。もちろん、それを実行すれば、わたしたちの生活は見事にも面倒なことにまきこまれるだろうが。。。」 

 

309. これらの反省はいつくしみの聖年のあいだ行われているということはみ摂理だ。この慈しみを多くの家族がおかれている状況の上に注がれなければならない。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命がある。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。キリストの花嫁なる教会は、だれも排除することなく、例外なくすべての人のもとに向かう神の御子の態度を自分のものとする」

教会はよく承知しているが、イエス自身は99匹の羊だけではなく、100匹の牧者である。牧者はすべての羊を愛している。このことに気がついたら次のことが可能になるであろう。つまり、「信じる人にも、信仰から離れた人にも、すべての人にすでに私たちの間にある神の国のしるしとして、いつくしみの芳しい香りがとどくように」

310. 「イエスは、いつくしみが御父のわざであるだけでなく、御父の真の子を見分けるための基準にもあると断言している」 これはローマン主義的な提言でも、神の愛に対する消極的な応答でもない。神自身は人を大切にしているのでる。「教会の生命を支える柱は、いつくしみである。教会の司牧の行為は、教会が世に向けて語るどんなメッセージにもどんなあかしにも、いつくしみが欠けてはならない」。

〔ただ反省して認めなければならないだろうが〕わたしたちはしばしば恵みの分配者としてではなく、その管理者として振舞ってしまうことがある。けれども教会は税関ではない。教会は父の家である。そこには、人生における困難を抱えた一人ひとりのための場所があるはずである」。 

 

311. 倫理神学の教え方において前述の考察が取り入れられなければならない。道徳に関する教会の教えのすべてを伝えることに関心を持たなければならないことはたしかであるが、特別な気遣いをもって福音の一番中心的な価値観を強調し、それを実現するように励ますことはいつも重要である。特に愛徳は倫理の中核である。 

愛徳は神の無償の愛に対する応答である。時にはわたしたちの司牧活動には神の無条件の愛のために余地を残さないのではないかと思う。慈しみを示すためには、あまりにも多くの条件を付けてしまえば、慈しみの意味が失われてしまう。これは福音の味をなくさせることになってしまい、言ってみれば、葡萄酒に水をまぜすぎることにも例えられよう。たしかに、慈しみは正義と真理を排斥しない。しかしなによりも言わなければならないが、慈しみこそ神の真理と正義の最高の成就であると言わなければならない。そのために、慈しみにおいて現される神の全能を疑う神学的な立場はふさわしくないと判断せねばならぬ。

312. 前述したような〔良心〕のとらえ方と〔神の慈悲の〕雰囲気を背景に一番微妙な課題と取り組もうとすれば、もはや机上の道徳観に頼ることができないだろう。〔教会法や教会の行政という枠ではなく〕、司牧上の配慮の識別という文脈の中で扱わなければならない問題がある。このような司牧上の識別は慈しみのある愛にみちている。

この愛はいつも理解し、ゆるし、同伴し、希望を持たせ、そして人を排除せずに教会の中へ迎え入れる。このような基本姿勢は教会において中心的であり、我々をみちびくべきであり、 「自分とは全く異なる周縁での生活を送るすべての人に心を開く」ようにさせるべきである”.

複雑な状況におかれている信者をはげましたい。司牧者と話すように。あるいは他の信者にそれをうちあけるように。それはかならずしも自分の考えを確認させることにはならないかもしれないが、おそらく自分がおかれている状況をよく理解するためにも、自分の成長への道を発見するために助けになるに違いない。司牧者もはげましたい。落ち着いて包容力をもって人の悩みに耳をかたむけるようにし、人の視点に立ってみて誠実に彼らを理解しようとするように。そうすることによって人の生き方を助けることができ、教会の中における自分の位置を見出すように人を助けることができるであろう。

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