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J.マシア神父のブログ「手作りの考え方」

2016-12-18

「聖霊と処女と名付け親」か、それとも「どの子どもも聖霊によって生まれるのか?

00:50

 今日は待降節の第4主日です。

 今日のミサの中心ポイントは「この子をイエスと名付けなさい、エンマヌエルと名づけなさい」というテーマです。

 クリスマスの季節において、わたしたちは祝いのカードを見て、マリア、ヨセフ、幼子イエス、聖家族の姿になじみが出ます。

でも、聖家族と呼ばれるこの家族から学ぶ命の誕生、母性、父性、名づけの深い意味をわたしたちは十分に把握しているのでしょうか。

当りまのようにわたしたちは教会用語を使って「マリアは処女ヨセフは名付け親、イエスは聖霊によって生まれる」という節を繰り返すかもしれないが、処女性とは、名付け親とは、聖霊とは…と聞かれたら何を答えましょうか。

 実は、

 1)どの親もある意味で、名付け親でもある、里親のような面をもっていると言えます。

 2)そして、どの親も親になって初めてその処女性は深い意味を帯びてきます。

 3)さらに、生まれてくるどの子ども聖霊によって生まれると言えます。

 4)なお、first name を与えられてその名前で呼ばれるどの人間もかけがえのない尊厳を持っており、人間であるとか何々人であるとか、何々の特徴を持っているとか言うより先に、誰々という個人だと言わなければならない。どの人間も排除され、差別されるべきではない。

 ヨハネ・パウロ2世が述べたように「イエス様の誕生、ご降誕、クリスマスの祝いにおいてどんな人間の誕生ももっている深い意味が現わされています。(『命の福音』2)。

 では、その意味を深めるために福音書の朗読にはマタイとルカを合わせましょう。マタイの1、20から、ヨセフへのお告げ、ルカ1、31からマリアへのお告げを聞きましょう。

 ルカによる福音書、1、31では、お告げの物語が述べられています。マリアは目が覚めていたでしょうか、うたたねしながら夢を見たのでしょうか。真実を見つめさせる夢です。近いうちに結婚するようになるでしょう。それに対して望みもあり、不安もあるかもしれません。マリアに安心させるみ使いが現われます。み使いは言います。「マリアよ、恐れることはない。あなたはいのちをめぐまれる。あなたは身ごもって、男の子を生む。その子をイエスと名づけなさい」

マタイによる福音書1、20−21では、ジョセフへのお告げが語られています。夢の中ですが、彼に目覚めさせる夢です。ヨセフは近いうちにマリアを結婚で迎えるようになる予定ですが、それに対して望みも不安もあります。み使いは彼に安心させます。「マリアを迎え入れることを恐れるな。マリアは男の子を産む。マリアが身ごもる子は神の聖なる息吹によって祝福されます。あなたはその子にイエス(人を解放する方)と名付けなさい」。

 このようにルカとマタイを合わせて読むと気が付くのですが、マリア二もヨセフにも子供に名前を付ける役割と使命が与えられています。そしてマリアにもヨセフにも同じ二つのことが言われます。一つはあなたは方子どもを授かり、恵まれろ。もう一つは生まれる子供は聖霊によって生まれる。

 イエスの名前を選んだのは神様です。そのためにみ使いを通して伝えられる。それから、名前を付けるのは父親と母親の役割と使命だということです。(当時父親が名前を付けるのは普通でした)。父親も母親も新しい命・児玉を恵まれます名前を付けるでしょう。名前を名付けるというのは、つまりその命を受け入れ、育てることを約束するということです。どの父親と母親も、ある意味で、名づけ親・里親だと言えましょうか。

 そして、どの新しい命も聖霊の息吹を注がれて生まれます。どの子ども聖霊によってお母さんがみごもって聖霊によって生まれると言えます。その意味でどの親も神とともに協働創造者であると言えます。生まれてくる子供は親から生まれると同時に聖霊によって生まれるのです。その子供に親が名前を付けるすなわちその存在を受け入れ、これからもそのように育て続けることを約束します(その子に、社会に、神に約束します)

 それはどんな状況の中で生まれたにしても、どんな事情で親が名づけ受け入れたにしてもそのように言えるのですよ。(たとえば、正式な夫婦、そうでない同棲カップル、LGBTの者が受け入れた場合、生殖補助医療の助けによって対外受精や代理出産などで生まれた場合であっても。。。同じく言えます)。

 多くの場合、母親が受胎完了(着床後、対外受精の場合も着床後)のとき、自分の中で出来上がった命を受け入れ、父親は本来ならば母親の妊娠が無事に進んでいくときから、母親と一緒に、遅くとも誕生の際、その子を名付けます。名づけの時点で、その命を受け入れ、育てる約束をします

 要するに、どの親でも里親・名づけ親のような面をもっているということです。(男女が一緒になることによってまたは精細胞を提供することによって精細胞の結合を可能にする。精細胞が出会って受精の過程をたどって胚を作る。産みの親は自分の中へ着床してきた胚を受け入れて初めてそれが胎児になっていくことができます。胚が胎児になるためには聖霊の息吹が注がれます。そしてその生命はかけがえのない一人の人間になってゆくのです)。

 ところで、名づけの重要さについてもう一つの観点から考えることができます。生まれてからかけがえのない存在であり、値段ではなく価値をもっています。その価値はどんな場合でも失われない尊厳であり、尊重される権利の根拠です。したがって差別されてはいけないのです。犯してはならない尊厳です。その子供にはラベルを付けるのではなく、名前を与えるのです。

(この子はドイツ人とか日本人ですというより先に、この子は人間であり、人間の尊厳を備えていると言わなければならないのです。この子はヒトという種のDNAを持つと同時にこの子にしかない遺伝的特徴をもっているだれだれ(名前)です)。

では、この福音によってわらわたしたちは支えられ、励まされたのですが、今年のクリスマスにおいて自分の親たちに感謝したい。そしてどの人間も皆同じくかけがえのない尊厳をそなわっていることを自覚したいんです。そして生まれてくるすべての子どものために祈りたいものです。

 わたしたちはみなおやから生まれて聖霊によって生まれたのですからクリスマスの夜には親に感謝、神感に謝、命の為に感謝してグロリアを唱えたい。天にいとたかきところに神に栄光。

 わたしたちはすべての妊gンの命を大切にしだれも排除されない、だれも差別されないよノ中を作っていきたいものです。地上に平和があるように、平和を作るようにつとめたいものです。

あ 2016/12/24 12:53 マシア神父様、受精の瞬間に命が生まれる神秘を避けていませんか。おかしいですよ。「胚が胎児になるためには聖霊の息吹が注がれます」はおかしい。胚ができる受精の瞬間に聖霊が注がれます。どこで勉強されましたか。もし私が間違っているなら教えてください。お願いします。

2016-06-09 教皇フランシスコ『愛の喜び』8章試訳307−312

司牧の場で適応される慈悲の道理

307. 誤解がないようにことわっておきたいのだが、教会が神の偉大な計画である結婚に関する理想を提言しつづけるべきである。「若い信者たちは、婚姻の秘跡が彼らの愛の人生計画に与える豊かさを前にして、ためらうことがないように励まさなければならない。彼らがキリストの恵みによって支えられること、また十全な仕方で教会生活に参加し得るということによって支えられることを、彼らは革新すべきである」

 福音〔の教え〕を提示するにあたって、控えめすぎる中途半端な態度や相対主義に陥ってはならない。遠慮してこの理想を示すことをひかえれば、福音への忠実がたりないことになり、また若い人に対して教会の愛が足りないということになる。

例外的な状況に直面したとき理解を示すからといって理想の光をぼやかすわけにはいかない。またイエスが人間に示した高い目標をめざさなくてもよいということでもない。

現代においては失敗に対するケーアよりも、失敗を予防するほうが課題であり、結婚の絆を確立し、その断絶を予防することが重要である。

308. それと同時に、情状配慮(心理的、歴史的、生物学的)を考慮に入れる必要があるが、「福音的な理想を低くすることなく、徐々に現れる成長段階をみて忍耐と慈しみをもって人の歩みに寄り添う必要がある。わたしたちにとってできる限りのことをするように勧める主の慈しみの働きのために余地をのこすべきである。」

 混乱を避けたいと思ってもっと厳しいアプローチを求めている司牧者がいることがわかるけれども、私は正直に言ってイエスが教会に求めているのはそのアプローチではないと確信している。聖霊は人間の弱さの中で善の種を蒔く。

教会がその種を育てるように気遣うことをイエスはのぞんでおられる。親心のある教会は、客観的な教えをはっきりと述べながらも、自分に可能な限りの善を実現しようとする。たとえそれをする過程の中で道のどろに塗れる心配があるにもかかわらず教会はそうするのである。

 教会の司牧者たちは信徒に福音の理想と教会の教えを提供するに当たって同時に彼らを慈しみの目であつかうべきであり、早まった判断や厳しすぎる裁きなどをさけるべきである(cf. Mt 7:1; Lk 6:37) 。 イエスは、「人間の悲惨に触れ、苦しむ他者の身体に触れるよう望んでおられる。人間の悲劇の中心からは離れた避難所を個人や共同体に求めることのないよう、そして、実際に他者と接して、いたわりの力を知るよう期待しています。もちろん、それを実行すれば、わたしたちの生活は見事にも面倒なことにまきこまれるだろうが。。。」 

 

309. これらの反省はいつくしみの聖年のあいだ行われているということはみ摂理だ。この慈しみを多くの家族がおかれている状況の上に注がれなければならない。「教会には、神のいつくしみを告げ知らせる使命がある。いつくしみは福音の脈打つ心臓であって、教会がすべての人の心と知性に届けなければならないものです。キリストの花嫁なる教会は、だれも排除することなく、例外なくすべての人のもとに向かう神の御子の態度を自分のものとする」

教会はよく承知しているが、イエス自身は99匹の羊だけではなく、100匹の牧者である。牧者はすべての羊を愛している。このことに気がついたら次のことが可能になるであろう。つまり、「信じる人にも、信仰から離れた人にも、すべての人にすでに私たちの間にある神の国のしるしとして、いつくしみの芳しい香りがとどくように」

310. 「イエスは、いつくしみが御父のわざであるだけでなく、御父の真の子を見分けるための基準にもあると断言している」 これはローマン主義的な提言でも、神の愛に対する消極的な応答でもない。神自身は人を大切にしているのでる。「教会の生命を支える柱は、いつくしみである。教会の司牧の行為は、教会が世に向けて語るどんなメッセージにもどんなあかしにも、いつくしみが欠けてはならない」。

〔ただ反省して認めなければならないだろうが〕わたしたちはしばしば恵みの分配者としてではなく、その管理者として振舞ってしまうことがある。けれども教会は税関ではない。教会は父の家である。そこには、人生における困難を抱えた一人ひとりのための場所があるはずである」。 

 

311. 倫理神学の教え方において前述の考察が取り入れられなければならない。道徳に関する教会の教えのすべてを伝えることに関心を持たなければならないことはたしかであるが、特別な気遣いをもって福音の一番中心的な価値観を強調し、それを実現するように励ますことはいつも重要である。特に愛徳は倫理の中核である。 

愛徳は神の無償の愛に対する応答である。時にはわたしたちの司牧活動には神の無条件の愛のために余地を残さないのではないかと思う。慈しみを示すためには、あまりにも多くの条件を付けてしまえば、慈しみの意味が失われてしまう。これは福音の味をなくさせることになってしまい、言ってみれば、葡萄酒に水をまぜすぎることにも例えられよう。たしかに、慈しみは正義と真理を排斥しない。しかしなによりも言わなければならないが、慈しみこそ神の真理と正義の最高の成就であると言わなければならない。そのために、慈しみにおいて現される神の全能を疑う神学的な立場はふさわしくないと判断せねばならぬ。

312. 前述したような〔良心〕のとらえ方と〔神の慈悲の〕雰囲気を背景に一番微妙な課題と取り組もうとすれば、もはや机上の道徳観に頼ることができないだろう。〔教会法や教会の行政という枠ではなく〕、司牧上の配慮の識別という文脈の中で扱わなければならない問題がある。このような司牧上の識別は慈しみのある愛にみちている。

この愛はいつも理解し、ゆるし、同伴し、希望を持たせ、そして人を排除せずに教会の中へ迎え入れる。このような基本姿勢は教会において中心的であり、我々をみちびくべきであり、 「自分とは全く異なる周縁での生活を送るすべての人に心を開く」ようにさせるべきである”.

複雑な状況におかれている信者をはげましたい。司牧者と話すように。あるいは他の信者にそれをうちあけるように。それはかならずしも自分の考えを確認させることにはならないかもしれないが、おそらく自分がおかれている状況をよく理解するためにも、自分の成長への道を発見するために助けになるに違いない。司牧者もはげましたい。落ち着いて包容力をもって人の悩みに耳をかたむけるようにし、人の視点に立ってみて誠実に彼らを理解しようとするように。そうすることによって人の生き方を助けることができ、教会の中における自分の位置を見出すように人を助けることができるであろう。

2016-06-08 教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris Laetitia 8章304・306

教皇フランシスコ『愛の喜び』Amoris Laetitia 8章304・306

ノルマと識別

304. 人の行為は一般的なノルマや規律に叶っているかどうかを検討するだけではその人の具体的な実存においてその人が神に忠実であるかどうかを識別するためには足りない。トマス・アクイナスの次の教えを思い起こし、司牧上の識別の中に取り入れたい。「一般的な原則において必然性はあっても、個別のケースになったら不確実性が増える。実践の領域において真理や実践的な確実性はすべての個別のケースに同じく適用することができない。一般的な原則についてだけその確実性がある。なお、そういった原則の適用はすべての行動に適用されうる場合でも、かならずしもすべての人がそれを把握できるとは言えない。具体的なケースに当てはめようとすればするほど不確かさが増える…

305.したがって司牧者は変則の状態にいる人々に対して倫理上の規範を石のように投げかけてはいけない。教会の教えを錦の御旗にしながら、かたくなな心をもって「モーゼの椅子に座って」、時に優越信と軽薄さをもちながら、複雑な問題や傷ついた家族をさばいてしまう者がいる…

 客観的に見て罪の状態と思われる条件の中にいる人は、さまざまな制約や情状配慮要素のため、主観的に罪科がないことがありうる。その人は神の恩恵を受けている状態におり、教会の助けを得て恩恵と愛得のうちに成長しつづけることがありうる。〔信仰上の良心的な〕識別に助けられて人は限界の中でも神の呼びかけに応答し、成長する可能な道を見いだす。どんな問題でも、白か黒かというアプローチしかできないと、恵みと成長への道が閉じられてしまい、神に栄光を帰する聖性への道をあきらめることになってしまう…  

306. どんな状況においても、神の掟を完全に守ることを困難に思われる者には愛の道への招きを聞かせたい。愛徳の道はキリスト者にとって最高の掟である。(cf. Jn 15:12; Gal 5:14).

2016-06-06 教皇フランシスコ『愛の喜び』 8章  301−303 司牧上の識

教皇フランシスコ『愛の喜び』 8章  301−303 司牧上の識別


司牧上の識別における情状配慮

301. 変則と呼ばれている状況において特に識別は可能であり、必要でもある。このことを正しく理解するためいつも念頭においておかなければならない問題がある。つまり、福音からの要請を軽減してもよいと思ってはならない。教会〔の伝統における倫理の考え方〕には情状配慮および〔判断と自由な決断の〕制約に関してしっかりした考察が展開されてきた。

〔そうしたカトリック倫理の伝統にもとづいて次のことが言える〕。つまり、 変則と呼ばれている状況におかれているすべての者に関しては人を大罪の状態にあるとはもはや言えない。人はときに規範の認識をもたないこともあるし、または規範をよく知ってはいてもその規範〔の背後にある重要な〕価値を把握することは困難なこともある。または人が具体的な条件にしばられることもある。なお、もう一つの過ちに陥ることを避けるため、特定の決断をすることができないときもある。司教たちが指摘したとおり、「決断力を制限する要素がある」。トマス・アクイナスが認めていたように、「恩恵をそなわってはいても、徳の実践をよくできないことがある。 還元すれば、 すべての徳をそなわっている人でも、それをあらわすことができないことがあり、その実践が困難になっているのである」。

302. 〔責任がとれる自由な決断〕を制限づける条件についてカトリック教会のカテキズムはこう言う、「行為の責任性は、無知、不注意、暴力、恐れ、習慣、過激な感情、またその他の心理的ないし社会的要因によって感じられることがありうる」。他のところではカテキズムは責任を軽減させる状況についてふれ、詳しく次の条件を挙げている、「感情的な未成熟さ、身に着けた習慣の力、不安の状況、あるいは他の精神的・社会的要因などを考慮しなければならない。これらの要因によって倫理的罪責が軽くなったり、最小限に感じたりすることもある」。 

 

 それがゆえに、特定の客観的な状況に関する否定的な評価はかならずしも各当の人の責任性に関する判断とつながらない。 これらの条件を念頭においてわたし司教たちとの次の判断に同意する。「ある状況に制約された場合人は今とろうとしている行動とは違うようなのを選ぶことはむずかしい。司牧上の識別において正しく養成された良心を考慮に入れながら、これらの状況を深刻に受け止めなければならない。人がとる行動の結果さえもすべてのケースにおいてかならずしも同じではないのである。

303. このような具体的な制約の重みを認めた上で、前述した人々や家族に対する教会の扱い方を見直したい。客観的に見て私たちの結婚観に合致しないいくつかの事実上の状況を取り上げるとき人の良心がはたす役割の重要さを考慮に入れなければならない。

確かに司牧者の真剣で責任のある識別によって同伴され、養成され、照らされる良心の成熟を促進しなければならないし、恩恵に対する信頼も養わなければならないのであるが、しかし良心の役割は単に特定の状況が客観的に見て福音の要請に合わないことを認識するに終わるものではない。

良心は、現状況の限界の中で神に答えるためには、自分にできる寛大な応答を誠実に認めることもできる。そしてその答えは客観的な理想にまだ十分に合致しないにしても、具体的な限界の複雑さの中で神が求めていることであることを十分な確信をもって見いだすことができる。ただこの識別は発展的であり、新しい成長段階に開かれていなければならないことを忘れてはならない。なお、識別は理想をより十全に実現できるように開かれていなければならない。

2016-06-04

教皇フランシスコ著『愛の悦び』Amoris laetitia 8章  296・303

17:40

296. 司教たちはいくつかの異なった弱さや不完全性〔不完全な心の持ち方や信仰生活のあり方〕の状況について言及した。これに関して道を誤らないように別な機械に教会に私は思い起こさせた次の点を明らかにしておきたい。

〔端的に言えば〕、“教会の歴史を振り返ると、いつの時代おいても二種類の考え方が見られる…一つは人を排除するもので、今一つは排除された人々を迎え入れなおすのである… エルサレム公会議以来、教会の道はいつもイエスの道であり、慈悲をかけることと人を排除しないことである… 教会の道と言えば、だれも取り消しがつかない形で断罪しないことである…神の慈悲を誠実な心で求めるすべての人に神の慈しみを注ぐことは教会の道である…真実の慈愛は無償で、無条件で、誰もそれを与えられるに値しない者である…”したがって「諸状況の複雑さを考慮に入れた上で、)〔裁きの〕判断を避け、自分が背負っている条件の為の痛みをもって生きている人々に関心をむけたいのである」。〔言い換えれば、司牧者たちは教えをはっきりと伝えながら人々がおかれている種々の複雑な状況を考慮に入れないような判断を下すことを避けるべきであり、司牧者たちは人の生活の仕方と人が背負っている条件の為に苦しまれていることによく目を向ける必要があるということである〕。.

297. 誰も排除してはいけない。どの人でも教会共同体のなかで、自分にふさわしい参加に仕方を見いだすように手伝わなければならない。どの人でも無償で、無条件で、自分がそれをいただくに値しない慈悲の対象であることを感じるように手伝わなければならない。だれも取り消しがつかない形で断罪されるべきではない。そんな断罪は福音の論理に合わない。私はこのことを断言するとき離婚してから再婚した人びとについて話しているだけではない。この断言はどんな状況におかれている人についても当てはまるのである。

〔もちろん、人が教会共同体と縁ようなを切る次のような場合、注意しなければならない〕。人が教会共同体から自分を離させることは起こりうる。例えば、ある人は客観的に罪と言えることはキリスト者の理想であるかのように示し、それを誇りにさえしていれば、当然その人に教会で教鞭をとるまた公共要理をを教える〔責任を〕ことを認めるわけにはいかないであろう。 (マタイ18,17参照)。その場合。その人に福音の告知を聞かせ、回心へと招かなければならないであろう。しかしその人の為にも共同体の生活に参加する方法がありうるはずである。たとえば、社会活動や祈りの会やその人と司牧者の識別によって見出されるその他の方法があろう。

合法的でない状況をどのように扱うかによって司教たちは次の合意を得たが、私はそれを支持する。「民法による結婚をしている人々、離婚した人々と再婚した人々への司牧的なアプローチについては、教会の役割は、彼らの生活の中における、神の恵みの導きを明らかに示すこと、また彼らのための神の計画の完成に、彼らが到達できるよう助けることにある」。このことは聖霊の恩恵によっていつも可能である。

298.離婚してから再婚した人々は随分異なった状況に置かれていることがありうる。これらの状況はわりきって決まったカテゴリ―に分類されないし、個人的識別と司牧的識別のために余地を残さないような型に嵌った断言で表せない。時間がたって確率された再婚で、夫婦同志の忠実が確認され、新しいいのちも生み出し、互いに与え合い、信者としてしっかりしている人々で、自分たちの身分が合法的であると知りながらも後戻りすればもう一つの誤りを犯すことになる場合がある。「子どもを養育していくために再婚した人」に別れさせるわけにはいかないことを教会は承知している。「最初の結婚を貫こうと真心誠意努力したにもかかわらず、不当に放棄された人々」もいれば、「子どもを養育していくために再婚した人」で、場合によっては「やり直しの聞かないほど破壊してしまった前の結婚は最初から有効ではなかったと自分の良心において主観的に革新している人々がいる」。これとは違うような場合もある。例えば、最近離婚したばかりで、こどもやそれぞれの家族に苦しみと混乱をもたらした人やしばしば自分の家族に対する義務を怠った人はそうである。これは結婚と家族の為に福音に基づいた理想ではないことをあきらかにしておかなければならない。司教たちが述べたとおり、司牧者が識別するとき、それを「状況をふさわしくわきまえなければならない」。そして「聖ヨハネ・パウロが勧めたように、それぞれの異なった事情に配慮したまなざしが必要となる」。教皇ベネディクト16世が言ったように、「簡単な処方箋がないことを私たちがよく知っておる」。

299,離婚してから民法上再婚した受洗者について司教たちがした提言わたしは受け入れる。その人々は、スキャンダルを避けて、可能な限りのいろいろな形でキリスト教コミュニティにより完全に溶け込む必要がある。誰も排除しない〈logic of integration包容力の理法・迎えいれることの道理〉はこの人々の司牧的同伴の為のカギである。彼らはキリストの体である教会に属していることを知るだけではなく、幸福にして実を結ぶ経験を持つことができるように。彼らは受洗者であり、兄弟姉妹であり、教会全体のためになる賜物を聖霊は彼らの上に注ぐ。彼らの参加の仕方は多くの形式を帯びることができる。そこで現在行われている種々の排除の形式 (典礼、司牧、教育など)について検討し、どのようにそれら〔の制限を〕なくすことができるかについて考えなければならない。彼らは破門されていると感じてはいけない。彼らは教会の生けるメンバーとして成熟していくこともできるし、教会はいつも親の心をもって彼らを世話し、人生の道と福音の道を歩むようはげますのである、このように彼らが排除されないことはその子供たちの育ちと子ども信仰教育において重要視されなければならない。」

300. 前述した具体的な状況の多様な種類を我々が考慮するならば、Synodusまたは本勧告からすべてのケースに当てはまる教会法上の一般的な規則の新しいセットを提供することを期待できないことがあきらかであろう。

可能なことは特定のケースの確実な個人的にして司牧的な識別を責任をもって行われるようにはげますことだけである。

「責任の程度が、すべてのケースにおいて等しいというわけではあない」、規則の結果または影響が必ずしもすべてのケースにおいても同じではないはずである

「教会の教えと司教の導きにしたがって識別の道を歩んでいる人を同伴するのは司祭の役割である。この過程において反省と痛悔の契機を含む良心の究明をすることは役に立つであろう。離婚してから再婚した人は夫婦関係が悪くなり始めたときからどのように子どもに対してふるまったかと自分に問いかけ、夫婦の間の和解を試みたか、放棄された配偶者はどの状況におかれているか、新しい配偶者との関係からどのような影響が家族の他のメンバーや教会共同体に及ぼされるのか、結婚準備している青年たちにとってどのような模範をみせているのか…などについて反省しなければならないであろう。正直に反省すればだれにも拒まれない神のいつくしみへの信頼が強められる。

ここで勧めているのは、「神の前に彼らの状況の誠実な認識に導く」識別の同伴を通して、〔教会共同体典礼秘跡への十全たる参加の仕方の可能性を妨げていr〕自分たちの条件について神の御前に反省することである。内的法廷・良心の法廷の場で司祭との会はを通して教会生活への彼らの参加をを妨げるk条件について正しい判断に至ることができよう。

ただFamiliaris consortio 34で言われているように、「漸進性の法〈一歩一歩段階的に成長していくこと〉を抱の漸進性と同一視して間違えてはならない。〔…異なった個人や状況に対応して、法の命令にも異なった段階があるかのように考えることができないということを念頭において〕、前述した識別は教会によって提供されている福音の真理と愛の要請をみのがすわけにはいかない。その為にそういった識別に伴うべき条件をよく念頭に置いておきたい。つまり、謙遜、懸命さ、教会とその教えに対する愛、神のみ旨を誠実に求めること、神の呼びかけにより完全に答える望みはその条件である。

この識別のことを誤解されれば、教会が二重基準の倫理を支持していると思われてしまうことが懸念されようが、識別の過程をともに歩む信徒と司牧者両車とも責任をもってその識別を行う場合、その危険性がないだろう。司牧者も相談に来る信徒も識別の正しいあり方を守るべきである。つまり、信徒は教会の共通善を自分の個人の望みよりも大切にし、司牧者は扱っている問題の重大さを申告に受け留ななければならない。

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