(8)2011・3・25「吉田健一の本から」

 
 外来はほぼ普通通りにおこなわれいている。予約した人は大体くるし、どうでしたか?ときくと特に変わりはありません、という。次の外来の予約も今まで通りに行われている。地震の体験を口にするひともあまりいないし、1月後には東京がどうなっているかわからないから予約はいいです、というひともいない。いろいろな噂はあるが、人々が浮足立っているようには見えない。今日の次にまた同じ明日がくると信じているようである。
 もちろん、地震以来、血圧が上がりっぱなしでとか、古いマンションの7階に住んでいて揺れる度に不安で不安でとかいうひとはいる。しかし、こういうかたは今までも、いろいろなことで血圧があがり、何かあるごとに不安になるというタイプのひとであるので、人間というのはなかなか変わらないものだと思う。
 
 吉田健一の「新聞一束」という文を読んでいたらこんな文章があった。昭和35・6年に書かれた文章である。
 「方々で事故が起つてゐる。日本だけではなくて、今度はどこかでオランダの大型飛行機が落ちたことも報道されてゐる。汽車がトラツクにぶつかつたり、飛行機が海に沈んだりして、かういふのは乗つてゐる人間が多いだけに悲惨である。そして何とかならなかつたかものかと思はずにゐられないし、飛行機事故を絶滅しろと新聞の社説に書きたくなるのも解る。勿論、それでなくては困るので、航空会社や国鉄が、偶には事故があつたつて仕方がありませんやといふ態度で営業したら、たまつたものではない。/ それで事故があれば、関係者も緊張して、飛行機が落ちた後の飛行機が一番安全なのださうである。又、事故を重ねて行くうちには、その度毎に惨事には目を覆ひたくなるが、安全装置も次第に完全に近いものになつて行つて、しまひには実際に無事故の時代が来る知れない。さういふことに早くしたいものだと、進歩主義者は思つてゐるに違ひない。そのことに異論はないが、かういふことがある度に思ふのは、この、どうにかならなかつたものか考へたがる人間の心理である。事故に限らず、一つの事件が起つた時、それに就て一番はつきりしてゐて、誰も動かすことが出来ないのは、それが起つたといふことである。さういふ事実があるから、その原因を尋ねもするし、又それに基いて将来に備へもするのであるが、それでその事実が帳消しになれば、さうして尋ね当てた原因も、それに則して立てた対策もふいになる他ない。何れの保證もその事実によつてゐて、死んだ人間は生き返らない。/ あの時かうすればどうだつたといふ考へ方をするものが多過ぎる感じがする。」
 以上、「事故」という文のほぼ全文。また、
 「「雨がガアガア降つてゐます。−小学生」といふ昨日の「かたゑくぼ」は秀逸である。これが四、五年前のもつと太平な世の中だつたならば、どこへ行つても水爆実験の話で持ち切りで、街には反対の署名活動の紙を載せた机が並び、各雑誌はこの問題で特集をやり、新聞には反対の意見を表明する諸家の言葉が連載されて、これが間違ひなく第二の内灘問題に仕立て上げられたことだらうと思ふ。そして勿論、それをやつてもやらなくても、雨が今日ガアガア降つて来ることに変りはない。」
 「静けさ」という文の前半である。
 ガアガアというのは、このころの放射線探知機は放射線を感知するとガアガアという音を出したことをいう。そのころの日本では放射性物質をふくむ雨が降っていたのである。今ならパニックだろうと思う。