Alternative Issue

個人的な思考実験の、更に下書き的な場所です。 自分自身で消化し切れていないことも書いています。 組織や職業上の立場を反映したものでは一切ありません。

経済学村は原子力村に勝る

福島原発問題を機に原子力村という言葉が大きくクローズアップされるようになった。産官学の馴れ合いとして捉えられているが、何のことはない専門家達による利益の配分システムである。社会が必要とする専門的な事業であり、それを執行するためには携わる専門家達が社会の信用を下に活動する。それ自体は、社会を効率的に動かしていく上で非常に良い仕組みである。ただ、その状態が永らく続いたために単純に堕落や甘えが生じ広がってしまったのである。
内容が専門的であるが故に、他分野からは容易に問題点を指摘しきれない。さらにいえば問題を起こす前には権威をバックに社会的な信用も有していたのだから、その問題点が大きな社会問題にならなかったのは当然のことでもある。強いていえば、その原子力村にいた当人達が長期にわたる外部の本格的な監査を受けずに済んだことから、徐々に社会からの付託を受けているという認識が失われていったことであろう。最初は、日本の国にためにというという強い志を持ってスタートしていたはずである。端的に言えば初心が忘れ去られてしまい、内輪による利益誘導システムに変貌してしまっていたのである。

この同じような問題は、日本社会のあらゆるところに生じている。組合も当初の志を忘れているし、マスコミも同様である。大企業もそうだろうし、公務員もしかり。
仮に仕組みとしての監査システムがあったとしても、長い時間と様々な理屈を付けて骨抜きにしていくのはどこであっても同じなのだ。それ故に、合理的観点から考えると社会的には不必要なことではあるが、一定の時期ごとにそれぞれの専門家集団には何らかのショック療法が必要なのこも知れない。

さて、原子力村や電気村はたまたま今回の福島原子力事故を受けて問題視されているが、大きな失敗を繰り返しているにもかかわらず未だに問題視をされない分野が存在する。マスコミもその一端を担っていると思うのだが、それ以上に批判させるべきは経済学村ではないだろうか。
失われた20年とは、国民の一部が失業等により不幸になっていく過程であった。考えてみれば20年もの間経済を上向きにできなかったのは政府の責任でもあろうが、同時にそこに理論的価値を与えるべく存在している経済界の責任でもあると言えるのではないか。あくまで政府や日銀も主要なプレイヤーではあるがそれでも一要素でしかない。
地震の予知ができない地震学者達と同じように、経済の動向の予測や経済を上向きにするための術を持たない存在が経済学村ではないか。それでも、現状においても数多くの関係者達は好き放題の言葉を言い続けている。責任を取らずに好きなことをその時々に言うだけであれば、言い方は悪いが誰にでもできることである。

原子力村のせいで生じた被害も甚大ではあるが、GDPが世界中ではこの20年で倍以上伸びているとすれば、全く伸びない日本の損失は数百兆円に及ぶことになる。もちろん、お金が全てではないことは理解しているし、起点をバブル絶頂期に取るのはあまり意味が無いとも思うが、経済村の住民達が国民に与えた存在はと言えばむしろ原子力事故よりもずっと大きいのではないだろうか。
ところが、日本全体の沈没は目に見える局所の問題ではないが故に、その被害の大きさが取り上げられることはなかった。それを追求しないマスコミの問題も小さくないが、その結果として政府や日銀が一息ついているとすればこれもまた問題であろう。

別に戦犯として糾弾せよとまでは言わないが、少なくともそれに携わる責任をもっと感じて欲しいと思うのだ。