猫を償うに猫をもってせよ

2016-05-29 このエントリーを含むブックマーク

 大阪大学名誉教授(美学)上倉庸敬(1949年- )の唯一の単著『フランス美学 涙の谷を越えて』(創文社、2009)のあとがきには、無気味なことが書いてある。これは2007年阪大学位論文がもとだとして、

その論文自体、同僚だった大橋良介教授(・・・)が、ご自分のご退職まえに申請させて審査してやろうと、一年もまえに、学生諸君の手を借りて、わたくしの知らないうちに、旧稿をあつめ、まとめてくれたものであった。「フトコロに手を突っ込むようなマネをして申し訳ないけど」と、大橋さんがコピーの束を目のまえに置いてくださったとき、過分なことと心から感謝したが、同時に、おぞましいものを見た気もした。おぞましくもあったが、ありがたかった」

若いもんがせっせと博士論文を書いている間に、こやつは博士号もなし、単著もなしで教授を務め、ようやくまとめたのが240ページ程度のこの小冊子だけだったのか。しかも他人が、学生の手を借りてやってくれたというのだから呆れる。

 阪大美学科は、61歳の准教授と55歳の准教授がいて、前者は著作・共著・翻訳いっさいなし、後者もそれに同じで、業績がなくて教授にできないのだと思われる。なんちゅうところだ。テニュア制を早急に導入すべしである。

(小谷野敦)

2016-05-28 このエントリーを含むブックマーク

http://bookshorts.jp/ishiishinji/

 先ごろ三島賞候補になり、蓮實先生が「とるべきだった」と言ったいしいしんじというのはどういう人かと思いこのインタビューを見てぶったまげた。なにこの有力編集者との友達づきあい。もしかして大学の友人とかなの?

 それに編集者から「失敗した方がいいよ。失敗していいから。どんどん失敗してください」などと言われている。磯崎憲一郎もそんなことを書いていたが、ペーペーの作家には考えられないことで、どういう特権階級作家なのであろうか。まあ「前衛」だから、ということか。

2016-05-27 「指輪物語」と恩田陸 このエントリーを含むブックマーク

 話題の『精霊の守り人』をちょっとのぞいてみようと新潮文庫を買ったが、くノ一+ナウシカ+記紀神話みたいでどうもいかん。主人公が30歳の女というのはいいが、色気がない。子供の読物だろうと思ったし、共和主義者の私には、皇子を守る、ということに一向に興味がわかない。

 ところが恩田陸と神宮輝夫が解説を書いていて、恩田の解説が気になった。恩田は、「ナルニア」も『指輪物語』も、大学生くらいで読んだから、遅すぎたと思ったという。だが、『指輪』の映画を観て、もう一度読んだら、これは人間が描かれていると気づいた、とあった。

 私は異世界ファンタジーというのがどうも苦手であるが、ここのところ、もうちょっと詳しく聞きたいと思って、『ユリイカ』2002年4月臨時増刊『指輪物語』の世界の、恩田の文章を読んでみた。ところが、先の文章(2007年)と、どうも言っていることが違う。自分は異世界ファンタジーは苦手だ、と言い、「指輪」「ナルニア」「ゲド」以外は認めない、と言う。ここですでにちょっとおかしい。さらに、『指輪』を戦争の比喩として読むのは侮辱だ、と言う。

 そのあとがおかしい。現実が苦しいからみなファンタジーを求めるのだ、と言う。だから21世紀はみなファンタジーを必要としている、と言う。これが分からん。過去の生活のほうがよほどつらかったと思うのだが。

 さらに、学生時代に『指輪』を読んだ時より今回のほうが面白く読めた、という。それは自分が大人になったから、と言う。これは2007年の文章と同じだ。ところがそのつぎ、単純にエンターテインメントとして優れている、と言う。そのことと、大人になったから面白い、ということの関係が分からない。

 結局私は二つの文章を読んで、恩田陸はやっぱり異世界ファンタジーが苦手で、世間のつきあい上、こういう文章を書いているんじゃないかと思った。

 私はといえば、「ゲド」も「ナルニア」も「指輪」も、英国人が子供を意識して書いたせいか、色気がなさすぎて面白くない。恋愛が全然ない。その前の文章で荻原規子があげているアラン・ガーナーの『ふくろう模様の皿』(アウル・サーヴィス)だけは面白かったが、これは恋愛こみの貴種流離譚だからだ。

 『三国志演義』は異世界ではないが、それにしても色気なさすぎである。

2016-05-25 このエントリーを含むブックマーク

夏目漱石が「I love you」を「月がきれいですね」と訳せと言ったというのは都市伝説らしいが、これは長山靖生の『「吾輩は猫である」の謎』(文春新書、1998)に、

「漱石は、ある時、英語の授業でI love youを「我、汝を愛す」と訳した生徒に「馬鹿、そんな日本語があるものか。これは“月が青いですね”とでも訳しておけ」と言ったという」

 とある。

 だがこれは、参考文献に、森田草平、松岡譲のものがあるので、そこに出ているのかもしれない、と思って探したがなかった。

 飯間浩明氏が古い例としてあげているのは、つかこうへいと豊田有恒のもの。

https://twitter.com/iima_hiroaki/status/666799218237923328

 つかのほうは、小田島雄志『珈琲店のシェイクスピア』(1978)での対談で、生徒が「愛してます」と訳したら、漱石がばかやろうと怒鳴りつけて、「月がとっても青いから」とするのだと言った、という。

 豊田のほうは『あなたもSF作家になれる、かもしれない』(1979)で、こちらはずいぶん脚色されて、生徒たちは「我、汝を愛す」「僕は、あなたを、愛(いと)しう思す」などとやったら、漱石が「おまえら、それでも、日本人か?」と一蹴して「日本人は、そんな、いけ図々しいことは言わない。これはー月がとっても青いなあ、と訳すものだ」と言ったとする。

 あと吉原幸子が『言語生活』1987年4月の「恋をかたることば」特集の「うまい恋文、いい恋文」で、「最近もどこかで見かけたエピソードに」として、生徒が「我、汝を愛す」と訳したら、漱石が、それは「月がきれいですねえ」と訳すのだと言った、とある。「どこかで見かけた」が困る。だが、「青い」がここでは「きれい」になっている。このあと吉原はエッセイ集などを出していないので、どこかに収録されたかどうかは分からない。だがここで「青い」が「きれい」に変わっている。

 漱石ではないかもしれない、と思って探したら、堀口九萬一の『遊心録』に、アイラブユウに該当する語が東洋にはないという一節を見つけた。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1117899

 「青い」はやはり1955年の菅原都都子「月がとっても青いから」以後に考え出されて付会されたものであろう。

2016-05-24 マシャード・デ・アシスと二人の女 このエントリーを含むブックマーク

 ブラジル19世紀の作家マシャード・デ・アシスは、どこでだか知らないが「ブラジルの夏目漱石」と言われているという。二つの長篇に日本語訳が二つずつある。刊行順に並べると、

『ドン・カズムーロ』デ・アシス 著 ; 伊藤奈希砂, 伊藤緑訳 彩流社 2002.2.

『ブラス・クーバスの死後の回想』デ・アシス 著 ; 伊藤奈希砂, 伊藤緑訳 国際語学社 2008.12

『ブラス・クーバスの死後の回想』ジ・アシス 著 ; 武田千香訳 2012.5 光文社古典新訳文庫

『ドン・カズムッホ』ジ・アシス 著 ; 武田千香訳 2014.2 光文社古典新訳文庫

 となる。『ドン・カズムーロ』と『ドン・カズムッホ』は同じものだ。伊藤奈希砂は京都外国語大卒、在野の翻訳家で、伊藤緑は妹でもあろうか。武田千香は東京外大教授である。

 普通、あとから出た翻訳は、既訳をあげて「参考にさせてもらった」などと書くものだが、いずれも後塵を拝した武田訳は、伊藤訳をガン無視している。

 それについて、武田訳『ブラス・クーバスの死後の回想』のアマゾンレビューに厳しいことを書いた人がいる。変名だが、ポルトガル語も参照したというからその筋の人だろう。

http://www.amazon.co.jp/review/R28P5X15BZUYC8/ref=cm_cr_dp_title?ie=UTF8&ASIN=4334752497&channel=detail-glance&nodeID=465392&store=books

「「ところで学生時代、文学の翻訳家を目指していた私は、翻訳すべき作品はどのような基準で選んだらいいかと恩師に質問したことがある。師からは、きわめてまっとうな答えが返ってきた。すでに日本語で読める繰り返しとなる本は訳す価値がない。これはまだ日本にないと思ったものこそ訳すようにと。

 (中略)

 だが、『ブラス・クーバスの死後の回想』は、間違いなく、その基準をクリアする。

 (中略)

マシャードの文学を、おそらくは初めて日本の出版界で本格的に「発見」してくださった川端博氏…」

武田千香訳『ブラス・クーバスの死後の回想』、株式会社光文社刊

訳者あとがき、p569 ~ p571より

 武田千香訳『ブラス・クーバスの死後の回想』の初版第1刷発行は、2012年5月20日である。これに対して、先行して発刊された、株式会社国際語学社版、伊藤奈希砂・伊藤緑訳『ブラス・クーバスの死後の回想』の初版発行は、2008年12月26日である。およそ3年半前の出来事である。

 さらに言えば、国際語学社版の伊藤奈希砂氏・伊藤緑氏の解説には、

 主たる参考・引用文献として、

武田千香著「近代国家ブラジルに捧げられた反・建国神話ー『エサウとヤコブ』の寓意性についての一考察」、東京外国語大学論集、第70号、2005年

同著「対蹠地の同時代作家の親和性ー比較文学の新たな視座を探るー」、東京外国語大学論集、第74号、2007年

『マシャード短編選』マシャード・デ・アシス(高橋都彦訳注)、大学書林、1982年

『学校物語・他4編』マシャード・デ・アシス(古野菊生訳注)、大学書林、1985年

拙稿(伊藤奈希砂氏・伊藤緑氏)「マシャード文学を読み解くー解説に変えて」 In: 『ドン・カズムーロ』 マシャード・デ・アシス(伊藤奈希砂・伊藤緑訳)、彩流社、2002年

などがあげられている。

 一方、武田千香訳光文社版では、先行する訳業については一切触れられてはいない。」

 さて、武田のために言っておくと、武田はこちらについては、15年かけて訳したと書いており、実際にそんなにかかったわけではないだろうが、1997年ころから始めていた、あるいは完成していたが版元が見つからなかった、というところか。そこへ伊藤訳が出て悲嘆にくれていると、亀山郁夫が光文社に紹介してくれた、というところか。大人なら、そこで正直に、伊藤訳が出てしまった、悔しかったが・・・などと書くところ、ガン無視してしまった。

 続いて『ドン・カズムッホ』となると、もうこちらは12年も前に出ている。一人殺すも二人殺すも同じことだ、とばかりに、また無視を決め込んだのだろう。