猫を償うに猫をもってせよ

2018-11-10 新刊(文庫化)です このエントリーを含むブックマーク

:訂正

232p 『三田評論』で編集長の高橋昌男は→『三田評論』で、『三田文学』編集長の高橋昌男は

2018-10-01 新刊(文庫化)です このエントリーを含むブックマーク

2018-09-21 凍雲篩雪 このエントリーを含むブックマーク

一、暇なので、一九七六年、私が中学二年の時放送されていた大河ドラマ「風と雲と虹と」の完全版を観ていたら、終わりに近くなったところで、加藤剛の訃報があった。

 しかしむしろ衝撃を受けたのは、当時の私がどれほど深くこのドラマの思想に影響されていたか、ということが分かったからで、貴族政治を批判し、農業や漁業で働く民人たちを国の主人ととらえる思想で、平将門と藤原純友は貴族政治や天皇制への反逆者として描かれていたのである。中二の私はこれに激しい影響を受けて、今日まで残っていることが、観ていてありありと分かった。

 ところで、将門の長伯父は国香で、その長男が将門のライバル・貞盛である。平安時代前期においては、貴族層では、後世のように父の偏諱を受け継がない。ところが、将門の父は良将とされており、将門の弟は将頼、将平らで、偏諱を受け継いでいる。次伯父は良兼だが、その子も公雅、公連、公元がいる。「風と雲と虹と」では、将門が奪って妻とした良子の弟ということになっており、将門がいったん敗北して良子が良兼の館に軟禁されていた際、公雅が手助けして脱出することになっている。演じたのは岡村清太郎、現在の清元延寿太夫である。だが史実の公雅はどうやら兄らしく、将門とも対立して将門敗死後、与党の興世王を捕らえている。国香、良正、良将、良文といった兄弟のうち、子が偏諱を受け継いでいるのは良将だけになる。だがこれは「良持」だとする説もあるが、将門より上に「将持」という夭折した兄がいたという文献もある。当時の一般的な名付けの法則に則るなら、「良持」であり、将持の存在は否定するのが妥当だろう。

 さらに、国香、良正、良将のように、長男以外の子供が偏諱を共有するという現象は、当時においてはよくあり、藤原氏なら忠平の子が実頼、師保、師輔、師尹、師輔の子が伊尹、兼通、兼家となっている。儒教思想では、高貴な人の名を避けるという思想がありので、もしかすると父を尊属と見てその字を避けたのかもしれないが、単に偏諱をとるという発想がなかっただけかもしれない。また長男=嫡男を高貴と見て字を避けたということもあるのだろうか。平安後期以後、武士の世界のほうが先に父の偏諱をもらうことが始まり、後代に至るが、公家では武家のように通字が生まれることはなかった。(く、道長以後の御堂関白家では嫡子が一代おきに通と実の字を持つことになり、五摂家の分立以後はあまり安定してはいない。)こういう名前の不思議について、歴史学者は何も言っていないようだが、つまりは文献がないからだろう。徳川時代の随筆類ででも誰かが考証していたら良かったのだが少なくとも私は知らない。

2018-08-21 凍雲篩雪 このエントリーを含むブックマーク

凍雲篩雪(78) 日本の誇りについて

 井上章一さんから『日本の醜さについて』(幻冬舎新書)を送っていただき、すぐに読了した。井上さんは、日本の丸山真男などの社会科学者は、日本人は西洋人のように自我が発達していない、集団主義的だという説に対して、高野陽太郎『「集団主義」という錯覚』などをひきあいに出して疑問視し、自身の専門である建築史の立場から、西洋では都市の景観が重視されて建築も規制されているが、日本では景観を無視して建物はなかば作り放題だ、つまり日本人のほうが「我」が強いのではないかと論じている。さらに第二次大戦の同盟国だったイタリアが、連合軍にローマを空襲されると、一日で降伏の方向へ向かったのに、日本では首都空襲から一年半も持ちこたえたという点に触れつつ、イタリアが羨ましい、と述べている。

 けっこう論点が複雑に入り組んだ本で、高野の言うのは正しいし、私は世間に流布する日本人論のほとんどがインチキだと言っている。とはいえ、建築で比較するなら、アジアの都市についても論じなければ片手落ちになるだろう。西洋の建築規制は自我の問題というより公共性の問題だろう。

 日本がアジアに比べても特殊なのは、井上も書いている通り、建物で履物を脱ぐことである。ところが今のところ、この点についての歴史的研究を私はまだ見つけていない。豊臣秀吉が信長の草履取りだったという点から、戦国時代にはすでに屋上脱履の風はあったと思われるが、戦国時代の戦争中に城へ入る時はどうだったのか、私は『信長の孫』という小説を書いた時に調べたのだが分からなかった。恐らく下層の兵隊は城へ入っても土足のところにいて、侍大将以上の者だけが脱履のところへ上がれたのだろう。一般人にも脱履が定着したのは徳川時代だろう。

 また現在パリなどの都市ではカフェが店外の席を設けていることが多く、井上は、フランスでは少し前まで犬を散歩させても糞は置きっぱなしだったと言う。日本でも犬の糞は持ちかえるという風になったのはこの二十年ほどのことではないかと思うが、また屋外は自動車の排気ガスで汚れているから、パリの屋外カフェで食事をすると乾燥した犬の糞が飛んできたりした、と書いている。カフェに限らず、日本は店舗を屋内に封じ込めることで衛生を保とうとしている、とある。

 ところで禁煙ファシストたちは、日本は禁煙後進国だなどと言っているが、西洋で禁煙が厳しいのは屋内の話で、カフェでもフランスでは屋外なら喫えるし、大学構内も、私が知る限り日本のようにキャンパス内禁煙ではなく、建物から五十メートル以内禁煙とかそうなっている。排気ガスが充満している千代田区あたりで路上喫煙に課金したりするのは日本のほうが不合理なのである。

 井上は十年前に『日本の女が好きである』(PHP研究所)を出している。そして『美人論』を書いた井上は、さるナショナリストの学者から、「なぜ金髪女を書かんのや」と言われたという。井上は、ナショナリストでも女は金髪が好きなんだな、と思ったと書いており、井上は別に金髪には興味がないと書いていた。だが今度の本では、都市計画の乏しい日本の街は醜く、イタリアが羨ましいと書いている。井上にもそういう西洋(ヨーロッパ)へのあこがれがあるのか、と思った。

 一方井上は坂口安吾の「日本文化私観」を批判している。法隆寺や東照宮などどうでもいいというエッセイだが、井上はかつて『つくられた桂離宮神話』でデビューした際、安吾の一種と見られたことがあるようだ。井上はここで、安吾がいかに建築に無知で、それに開き直っているかを批判し、知らないなら黙っていてほしいと言っている。安吾は文学のほうが建築より上だと思っているのだろうと書いている。

 私自身、井上の『つくられた桂離宮神話』を読むまで、桂離宮がそんなに崇められているとは知らなかったし、建築には無知である。

 私は十八世紀から十九世紀の西洋の音楽や文学の達成は、きわめて高いもので、日本の徳川時代の文化は、多様ではあるが貧弱だと思っている。だが、別にそのことで日本がどうだとか西洋に憧れるとかの感情を持たない。中村光夫や篠田一士のように、日本の近代文学が私小説のおかげでダメになったともむろん思わない。

 しかし私は、日本の漫画やアニメの質が高く、他国でも評価が高いのを誇りに思っていて、一九三○年代生まれの師匠たちが日本文化がどうこう言う時に、彼らは漫画やアニメのことは知らないからなあ、と思っていたのだが、一九五五年生まれの井上も、どうもそちらの人らしいということが分かった。

 もっとも、私より下の世代でも、エリート知識人には日本の漫画やアニメに関心のない人も多そうで、単純に世代では片づけられそうもない。

 しかし、私は自国を愛するという点ではナショナリストだが、いちいちつまらないことで日本の恥だの名誉だのと騒ぐのが好きではないし、井上のこんぐらかったイタリアへの憧れや、江藤淳の米国への怨念などはどうも理解できない。

二、栃ノ心が大関に昇進した名古屋場所番付が発表されたが、栃ノ心は東の張出大関、つまり第三位につけた。先輩大関たる高安は先場所全休、豪栄道は三勝しただけで途中休場なのだから、栃ノ心が東の正大関なのが昔は普通だったが、調べてみたら、二〇〇二年の栃東の大関昇進の時から、新大関は大関最下位につけることになっていた。横綱のほうも、一九九九年の武蔵丸の昇進の時は西正横綱につけたのが、二〇〇二年の朝青龍の時は西横綱にしているから、二〇〇二年から横綱・大関ともそういう方針になったようだ。私としては以前の、前場所の成績次第で先輩横綱・大関を越す番付になるほうが自然だと思うが、相撲協会は特に方針の変更について説明はしていない。

三、林真理子が『婦人公論』に連載していた宮尾登美子の伝記小説「綴る女」を読んでいたら、宮尾が学歴について劣等感を抱いていたという記述があった。当時としては十分な学歴でも、瀬戸内寂聴の東京女子大卒などに比べてのことである。それでふと、伊吹和子(一九二九ー二〇一五)のことを思い出した。伊吹は京都の呉服問屋に生まれ、高校卒業後、京大の国語研究室で新村出のもとで勤務し、その紹介で谷崎潤一郎の筆記の手伝いをした人で、随筆『われよりほかに』などで知られる。ところがその履歴を見ると、高卒とは書いてなく、まるで京大を出たように見えたもので、一三年ほど前に渡邊千萬子さんが、なぜ伊吹さんはあの世代であんなに学歴を気にしたんでしょうと言っていたのだが、千萬子は伊吹の一つ下で、同志社大学英文科卒である。伊吹が引け目を感じ、ライヴァル視していたのは千萬子さんであろう。私は、谷崎が最後の年月、好きだったのは本当は伊吹だったろうと思っており、伊吹も谷崎に最も愛されていると思っていたはずで「われよりほかに」という題は、谷崎の心を知るのは自分だけだという伊吹自身の感懐が込められていたと考えている。