猫を償うに猫をもってせよ

2016-09-15 久しぶりに新刊です このエントリーを含むブックマーク

弁慶役者 七代目幸四郎

弁慶役者 七代目幸四郎

2016-07-22 このエントリーを含むブックマーク

 『久米正雄伝』の『白蘭の花』のところに、蘭は満洲の花とありますが、満洲の国花は高粱で、蘭は皇帝の紋章だそうです。しかし国花だと思われていたようです。

 なお久米を山岡荘八が代作した「折鶴」については、『大衆文学研究』1990年第94号に清原康正の「久米正雄の『折鶴』」がありました。もっとも「折鶴」の出来については何も言っていないが、全体から、不出来だと思っている感じは伝わってくる。

2016-07-21 「国民の総意」とは何か このエントリーを含むブックマーク

凍雲篩雪

 「天皇……の地位は、主権の存する国民の総意に基く」と日本国憲法にあるのは、かねてからの謎である。「総意」は、『日本国語大辞典』で調べると、「すべての人の意思。全体に共通している意見」とあり、もちろん日本国憲法発布の時点でも天皇制に反対する者はいたのだから、憲法は事実でないことを何ゆえか述べていることになる。

 しかし日国は用例として、一九三五‐三六年の大佛次郎『ブウランジェ将軍の悲劇』から、「ここ半ヶ年の間に国民の総意に依つて正々堂々と目的を貫き得ると云ふ際に」を引いている。これはフランス国民だが、とても定義と同じ意味とは思えない。

 「満場一致」とか、陪審裁判における陪審員の判決などは、これは全員の意見である。ないしある団体が協議して、それを団体の総意として提出するということはある。だが、概して事務的な用語であって、一般的な文章に現れることはあまりない。

 憲法学者でも、この「総意」についてはあまり突っ込んで研究している人はいないようで、中には、英語の原典に当たって「will」とあるのを確認してなぜか満足してしまう人もいるし、「総意」は、天皇が世襲であることと矛盾するという人もいれば、芦部信喜などは、総意だから将来的に国民の意思で変更できるとする者もいる。しかしもともと「総意」などないのだからおかしな話である。

 百歩譲って国民の多数派の意思という意味に解したとしても、それは公式に調査もされていないし、国民投票がなされたわけでもない。憲法制定過程の研究はずいぶんなされているが、この「国民の総意」という語がどうして出てきたかは分からない。

 ところで日本国憲法発布以前に、和辻哲郎が「国民の総意」の表現が天皇だと書いていた。同盟通信社の依頼で、一九四六年新年の新聞に書いた短文である。ここで和辻は、かつて軍部が「軍の総意」を振り回し、一部政治家が「国民の総意」を捏造して日本の敗戦という悲劇を引き起こしたが、結局日本国民の総意を表現するのは天皇であると説いている。

 これは地方紙に掲載されたが、うち「北国毎日新聞」では、和辻の弟子だった安藤孝行(たかつら)が反論を書いている。安藤孝行は白崎秀雄の『当世畸人伝』(新潮社、一九八七)に登場して、この逸話が冒頭にくる。和辻は安藤の反論に対して、「国民の総意」という語を何の説明もなしに使ったのは不備であったとして、「国民とは同一の言語、歴史、信念などを有する文化共同体(傍点)であって、(略)しかし他方には国民を一つの国家の成員の全体(傍点)、あるいはさらにその個々の成員(傍点)を指すものとする用法が行われている」などと説明するのだが、「総意」に関しては、「全体意思」と言い換えたのみで「総」の不審点には触れられず、「たとい少数者が決定しても、その決定されたのは国民の全体意思である」とするのだが、その根拠が分からない。

 今日でもだいたい右派の論客はこの「国民の総意」を、歴史的に天皇制が存続してきたのは国民が支持したからであり、それが「国民の総意」の意味だと解釈する。だがもちろん、安藤は北一輝と同じく、日本歴史は乱臣賊子の歴史であって、藤原氏や武士は天皇をないがしろにし続けてきたと指摘する。だが和辻は、それでも天皇が廃絶されなかったのは国民の意思だと言い、「江戸時代の民衆が、将軍の尊さを知っても、天皇の存在をさえ忘却していた、というようなことは、資料の上からは決していえることではない」としているが、現在では和辻が誤っていることは明らかである。この点については、小林よしのりと論争したことがあり、私の勝ちに終わっている。現在の右翼論客は、この話は蒸し返されたくないらしく沈黙を続けるか、こちらの話を無視して議論を続けるかしている。

 ところで、和辻の文章から分かるとおり、「総意」という語は、昭和初年にある流行をみたものらしい。『満洲国民之総意』という著作が一九三二年に満洲国外交部から出ている。中身は漢文だが、英語題名は「総意」が「ヴォイス」になっている。これは「主義などの表明者、代弁者」の意味で、米国政府のラジオ「ヴォイス・オブ・アメリカ」と同じ意味である。『満洲国民之総意』は十二月刊行だから、リットン調査団の十月の調査結果に対抗して、満洲国正当化のために出されたものだろう。もとより満洲国は日本の傀儡国家であり、満州族を中心とするといえ、憲法すらなく、「総意」など調べたはずはないのである。

 要するに「国民の総意」というのは、昭和初年、うさんくさいことをする時に使われた言葉だったのである。軍国主義と決別したはずの日本国憲法が、そのうさんくさい言葉を第一条で使ってしまったのは喜劇でもあり悲劇でもあり、またのちに『鎖国 日本の悲劇』を書いた和辻が、そんな言葉を率先して用いたのも悲喜劇であろう。

 和辻がその後佐々木惣一とおこなった天皇制論争については、湯浅泰雄『和辻哲郎』にも詳しいが、この「国民の総意」は特に問題にされていない。だが「軍部の総意」「満洲国民の総意」など、うさんくさい用法がなされていた語を、和辻や日本国憲法が用いてしまったことはいま一度注意されるべきことであろう。仮に憲法が改正されるとしたら(私はもとより天皇制廃止論者だが)、この「国民の総意」は訂正されるべきであろう。

2016-07-10 理由はない このエントリーを含むブックマーク

 石原千秋が、『さようなら、オレンジ』について、好きであることに理由はない、と言ったのだが、これはよく考えたら歌謡曲によく出るフレーズだった。

2016-07-03 このエントリーを含むブックマーク

http://www.support-asano.net/menu/textpage/t-news4/news4-1606-1.html

今は同志社との裁判になっているのにいつまでも「文春裁判」を表題に掲げているのはどういうわけか。まあ浅野健一のような北朝鮮のスパイみたいなやつは放り出したほうが同志社のためで、65歳定年なんて東大、慶大、東海大では一般的なのに、70歳までいさせろとか図々しいのである。(まあ裁判では勝つかもしれん)

 しかし不可解なのは、浅野の指導で博士論文を書いていた院生が困っているというところで、博士論文の指導なんか教授を辞めたって出来るではないか。