猫を償うに猫をもってせよ

2016-09-26 集英社文庫アンソロジー このエントリーを含むブックマーク

「日本ペンクラブ編、(作家)選」となっていたシリーズ

教養小説名作選 / 高橋健二 1979.4.

音楽小説名作選 / 五木寛之 1979.4.

幻想小説名作選 / 半村良 1979.4.

純愛小説名作選 / 吉行淳之介 1979.5

スポーツ小説名作選 / 井上ひさし 1979.5

情報小説名作選 / 三好徹 1979.5

花柳小説名作選 / 丸谷才一 1980.3

心中小説名作選 / 藤本義一 1980.4

捕物小説名作選 / 池波正太郎 1980.5

私小説名作選 / 中村光夫 1980.6

実験小説名作選 / 筒井康隆 1980.7

経済小説名作選 / 城山三郎 1980.7

幻覚のメロディ 眉村卓選 1981.6

ロマンチックはお好き? / 田辺聖子 1981.7

最大の殺人 /佐野洋選 1981.8

人生の読本 / 山口瞳 1981.10

愛のかたち / 瀬戸内晴美 1982.4

過去のある女 /結城昌治選 1982.8

十字路の残照 / 井上靖 1982.11

男の小道具飛び道具 / 生島治郎 1982.6

食前にたっぷり / 色川武大選 1983.11

一攫千金の夢 / 石川喬司 1983.4

何とも知れない未来に / 大江健三郎 1983.7

素敵な活字中毒者 / 椎名誠選 1983.9

ことばよ花咲け / 大岡信 1984.4

映画が好きな君は素敵だ / 長部日出雄 1984.6

名探偵が八人 / 都筑道夫 1984.8

書くに値する毎日 日記名作選 つかこうへい選 1984.10

恐怖特急 / 阿刀田高 1985.4

いま、危険な愛に目覚めて / 栗本薫 1985.7

勝負 / 津本陽 1985.12

捕物小説名作選 1-2 / 池波正太郎 2006.8

2016-09-25 このエントリーを含むブックマーク

長谷川町子の一種の自伝『サザエさんうちあけ話』は、朝ドラ「マー姉ちゃん」の原作にもなっていて、1978年に「朝日新聞」に連載された。この中に、1967年長谷川が47歳の時激しい胃痛に襲われ、手術する部分がある。これは実際は胃がんだったが、長谷川ががんを恐れていたので、家族と医者は胃潰瘍で押し通したとある。だが読んでみると、執刀した中山恒明は「悪いところはとった」と言っているし、がんセンターにも一時入院している。もしかすると町子は、『うちあけ話』を書いたころには、胃がんだったと知っていたのではないか。

2016-09-24 このエントリーを含むブックマーク

「新八犬伝」の二年目だったか、犬山道節が敵を攻めあぐんでいる時、不思議な子供が現れて、「おじさん、せいのでんたんを知ってるかい」と言う。すると道節は「せいのでんたん、おう、えんのがっきがせいの七十よじょうを奪った時・・・」と説明する。そのあと子供は「源義経を知ってるかい」と言う。これで道節は、火牛の計を思いつくのである。

 私は小学六年生だが、「せいのでんたん」だの「えんのがっき」だの、分かるわけがない。義経はまあ分かったが、これが「斉の田単」「燕の楽毅」であることが分かるのに二年くらいかかった。字幕すら出ないんだから、当時は厳しかったなあ。

2016-09-22 凍雲篩雪 このエントリーを含むブックマーク

「杉田久女伝説」の謎

 田辺聖子の『花衣ぬぐやまつわる… わが愛の杉田久女』は、一九八七年に刊行されて、女流文学賞を受賞した。私が大学院に入った年で、母が購入して読んでいたから、実家にあるが、今日まで読む機会がなかった。先ごろふと読んでみて、杉田久女の伝記について学ぶところはあったが、疑問も残った。

 久女は、戦後すぐ五十代で死んでおり、最後は精神病院に入れられていた。長女・昌子は作家・アメリカ文学者の石一郎に嫁ぎ、次女・光子はフランス文学者の竹村猛に嫁いでいる。これらの結婚の経緯はよく分からない。

 松本清張の初期短編に「菊枕」というのがあって、名前は変えてあるが久女をモデルにしたと言われている。久女は夫の画学教師・杉田宇内とともに小倉にあり、『ホトトギス』に属して高浜虚子に師事したが、その奇矯な言動を嫌われ、『ホトトギス』同人から除名された。久女は句集を出そうと考え、虚子に序文を乞うたが虚子は書かず、ついに久女は次々と虚子に手紙を出し、虚子はある時から、これは危ないと思って読まずに机の中にしまっておいた。久女は二三〇通の読まれない手紙を出し続けたという。

 清張は初期、不遇な学者などを描くことが多く好短編をものしている。小倉はゆかりの地でもあるから久女に関心をもって調べたものだろう。だが、遺族はこの扱いに不満だったようで、石一郎は「東京新聞」紙上に(一九五三年八月六日)抗議文を載せた。清張はこれに答えている。石は、遺族感情を逆なでしているとして「バルザックならこんなへまはやるまい」と書いているのだが、セザンヌを怒らせたゾラはへまをやったのだろうか。またその後、吉屋信子が『底のぬけた柄杓』に収められた「会わなかった人」でも実録として久女のことを書いている。

 田辺著は、清張と吉屋の短文を批判することが主眼のようにも見えて、両者の記述の事実誤認を訂正している。田辺は、石昌子の『杉田久女』や、増田連の『杉田久女ノート』を参考にしている。それはいいのだが、読んでいくと、先の二三〇通の手紙にしても、やはり久女の行動は奇矯には違いないのである。

 その後に出た、英米演劇の研究者で現在東洋大学名誉教授の桑原文子が、俳人としての坂本宮尾の名で書いた『杉田久女』があり、のち角川選書に入っているが、こちらのほうはいたずらに清張や吉屋を非難することもないし、久女の行動が奇矯であることを認めていていい。

 また田辺著には、清張の小説が「これは法の力をかりて争われたようであるが」とある。だが石昌子の『杉田久女』には、一郎が「やめておけ」と言ったので裁判にはしなかったとあって齟齬がある。『田辺聖子全集』(二〇〇五)でもここはそのままである。どういうことか。

 いったい、藝術家が変人だったり、精神を病んだりすることはごく普通のことで、それが藝術の価値を下げるわけではない。だが、それを理解しないのはいつでも遺族である。川端でも三島でも、遺族は、作家が同性愛であったり少女愛であったりすることを指摘されると躍起になって否定しにかかる。田辺などは自身が作家でありながら、遺族に取材したためにこのようなことになってしまったのだろう。

 虚子という人は、俳壇のボスであって、『ホトトギス』主宰は今日まで「世襲」されている。驚くべきことで、そのような意味で、俳句は第二藝術とされるのだが、久女に対する行動はまた別である。二三〇通の手紙を、返事も来ないのに書き続けるというのは、これはストーカーではないか。虚子が気持ち悪く思うのは当然である。久女の死後、虚子はこの手紙のいくつかを紹介して「国子の手紙」として発表しており、田辺らはこの行動を非難する。だが、これは虚子の恐怖心を理解しない言い分である。実際、久女が虚子を刺すということだって、虚子は想像しただろう。ストーカーに逢った者は、その恐怖心を和らげるためにこのような文章を書くのであり、虚子のトラウマであろう。久女は、思うに、精神分析の「転移」のように、あるいはある種の女子学生が、男の教員に異常な惚れ込み方をするように「師匠惚れ」してしまったのである。もしかすると、破棄された手紙の中に、そういうものもあったかもしれない。久女が『ホトトギス』を除名されたのを、坂本宮尾は、久女が徳富蘇峰に頼んで句集を出してもらおうとしたからだと、発見された書簡から推定しており、それもあるだろう。田辺は、虚子は久女が嫌いだったのだ、と直感的に推定している。私はむしろ、久女の執着が虚子には恐ろしかったのだと思う。

 ところで久女の没後、石昌子は、一郎の先輩の川端康成に頼んで一九五二年に角川書店から『久女句集』を出すが、この時も虚子に序文を頼み、その序文が事実と違っていたと指摘されている。私は、なぜ同人から除名されたのに虚子に頼むのか分からずにいたら、短歌結社では、同人を除名されると一般会員になり、それでも主宰の序文が必要なのだそうである。阿呆らしい話だし、普通はそんな扱いをされたら結社から出るものだ。そこまで虚子が好きだったのか久女、と思う。

寺岡葵の『俳人杉田久女の病跡 つくられた伝説』(熊本出版文化会館・創流出版、二〇〇五)という本がある。これは熊本で精神科医を開業する著者の、久女は橋本病(慢性甲状腺炎)だと診断するものだが、ひどい本で、清張、吉屋、虚子に対して、久女への底意があったの何のと悪罵の限りを尽くし、橋本病という判断も、寒け、頭痛、むくみといったものを俳句などからひきだし、その奇矯な行動は一切閑却してなされたものである。しかもこの寺岡葵という人のプロフィールは著書のどこにも書いてなく、調べると熊本大学で医学博士号をとった人で、薬物依存が専門らしいが、他人を批判する文章を公開するのに自身のプロフィールを記さないのは非常識である。

 『kumamoto』という地方文化雑誌の二〇一四年十二月号に、著書の刊行からもう十年もたつのにその寺岡のインタビューが載っている。かなり高齢らしい写真はあるがプロフィールはなく、題名は「高濱虚子・松本清張・古屋信子ら大家による歪められた久女像を正す 病跡からその実像に迫る力作」とある。「古屋」はてっきり国会図書館の誤記だと思ったら、本文中でも「古屋信子」で、しかも寺岡は、それが日本文学報国会の会長だったなどととんでもないことを言っている(著書のほうでは女流文学会の委員長と書いてある)。ここでは橋本病説は引っ込めたのか、出てこない。

 ウィキペディアの「杉田久女」の項にも「久女伝説」として、清張や吉屋、虚子によって虚像が作られたかのごとき記述があるが、遺族側にたった伝記というのは恐ろしいものだと思う。どうもこの久女擁護の流れは、寺岡まで来るとプチ・ファシズムの様相を呈している。坂本宮尾は例外だが、久女と虚子の間で何があったかは分からないわけで、ストーカー被害者としての虚子という視点は欠けている。ストーカー被害は女だけではないのである。

 しかし杉田久女をめぐるあれこれを読んでいて、私はつくづく短歌や俳句の世界の徒弟制度の前近代的なのにげんなりせざるを得なかった。師匠の序文がなければ句集が出せないなどという世界を改革しようともしない俳人とか歌人とかいうのは、いったいどういう存在なのであろうか。こんな体質がある限り、第二藝術のそしりはいつまでたっても免れないだろう。

2016-09-16 隅野滋子のこと このエントリーを含むブックマーク

 昭和初年、谷崎潤一郎は、大阪女子専門学校英文科の女子学生たちに、翻訳や大阪弁の手伝いをさせていた。その筆頭が隅野滋子で、滋子は大正15年(1926)暮れ、大阪女専在学中に、新聞で谷崎と猫の写真を見て、猫が見たいと手紙を出し、同期の武市遊亀子とともに谷崎宅を訪れた。そのあと、昭和二年(1927)滋子はポオの「裏切る心臓」を試訳して見せたらしく、谷崎は書簡で結構な出来ばえと褒め、今使っている高等商業の秀才よりよほど出来る。下訳をやってくれるなら原書を送ると書いている。これが恐らくスタンダール『カストロの尼』の英訳である。

 昭和三年初め、この翻訳は『女性』に掲載され、三月に滋子は女専英文科を首席で卒業し、大阪朝日新聞社に入る。その秋、高木治江が谷崎の手伝いを頼まれ、エロ作家だと思ったから心配して先輩の滋子に相談したら大丈夫だと言われたので、古川丁未子とともに谷崎宅へ出向いた。丁未子は滋子の同期だったが胸を病んで一年休学していた。のち丁未子が谷崎と結婚する。

 昭和四年十一月末、『大阪朝日新聞』「女人群像」にダンスホールで踊る根津松子の写真が載り、担当は隅野で、ために松子は親戚中から怒られ,隅野は谷崎から怒られるということがあった。

 この隅野滋子は、歌人の岩野喜久代(1903−96)の『大正・三輪浄閑寺』(青蛙房)を見たら、岩野の妹であることが分かった。実父は酒巻貞一郎で、1907年頃、江田島海軍学校官舎に生まれ、数え三歳で大阪の税関吏隅野家の養女となったという。養母は小虎。のち結婚して山下姓になり、のち夫を亡くした小虎を引き取って面倒を見たという。