今日の雑談

2112-12-21 はじめに

このブログは次の三原則を掲げています。


1 私はいい加減な面倒くさがりなので、あまり調べずに適当に書きます。

2 私はいい加減で頭が悪いので、ろくなことは書きません。

3 私は頭が悪いので空気が読めません。ごめんなさい。


P.S.

もとは「jura03のいい加減な日記」というタイトルでしたが、タイトルを変えました。が、原則は変わらないしこんなもんです。

2016-12-18

扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part153 学者はそれでいいけれど

経済学者の斎藤誠が、いい文章を出していた。

(斎藤誠先生はリフレ派ではないけれども、とりあえずリフレ派絡みということでこのタイトルで。念のため。)

齊藤 誠さんのツイート: "【2016年12月18日】浜田先生とのこと #fromEvernote https://t.co/63lW9PTqOW"

【2016年12月18日】浜田先生とのこと

経済学も何にもしらない人間からすると、そうだろうなあと思った。いい文章だと率直にそう思う。

ただ、「そうそう、そこで話が一般とずれてんじゃないの」という点があった。例えばこういうところ。浜田教授がいかに経済学者の間で尊敬されているかとして、

比喩が適切でないかもしれないが、クルーグマン教授は、NYTのコラミストではなく、国際経済学や空間経済学の革新的な研究者として、経済学研究者の間で深く尊敬されているのだと思う。

と言っている。これはよくわかる話で、学者としての業績は、学者でないと分からないから、それを知るものは深く尊敬するのは当然の話で、むしろそうあるべきだと私も思う。

ところが、ごくごく一般的には、例えばクルーグマンの場合、NYTのコラムを書いているノーベル賞経済学者として認識されてしまうのも、これまた当然だと思う。一般の人間にはクルーグマンの業績なんて理解できないので、それがいかに偉大なことが理解できるわけがない。

したがって一般の人間の間では、「この経済学者ノーベル賞を取るくらい、立派な学者なんだ」という権威づけだけが先行してしまい、そうなると簡単に読めて、日本語にも少なからぬ量が翻訳されているNYTのコラムを、その権威の下で読んでしまうということが発生する。

つまり、批判がきかない状態でどうしても読まれてしまう。平たく言うと、鵜呑みされる。

ところが、クルーグマンは、経済学者としての見識に基づいているとはいいながら、所詮は新聞のコラムを書いているのであって、また話題が広がると自分の専門分野以外の話も当然する。クルーグマンが偉いのは、彼が上げた業績によって尊敬されるのであって、そこから離れたときに、クルーグマンの主張が同じように立派で尊敬されるべきかというと、それはそれで別問題だろう。

machineryさんがクルーグマンに対する違和感をブログで書いておられたけれど、それは「クルーグマンは日本のことをよく知らず、現実をよく知らずに書いてるだろう」というものだったと思う。私もそうなのではないかと思っている。

以前にも書いた同じ例えをすると、ある音楽家がピアニストとして超一流であっても、その人がヴァイオリンでも超一流であることはまずありえないのは当然だと、誰だってそう考えるだろうけれども、それと同じことを経済学者にあてはめるとどうもそういう風に受け取られにくくなってしまう。

そういう問題はあるんだろう。

もう一点。

最近、浜田先生が金融政策について考え方を修正されたことがメディアで報じられたが、私はその経緯をまったく知らない。ただ、よく言われている「変節」ということでは絶対にないと思う。先生のお考えでは、最初の最初から、複数均衡ということがあられたとのだと思う。今の日本経済が「悪い均衡」にあって、それを「良い均衡」に誘導する手段としてマクロ経済政策を位置付けられているので、その内実が経済状況に応じて修正されるのは自然なことだと思う。

で、これは学者としてはそれでいいんだろうし、むしろそうあるべきなんだろうとも思う。

ただ、首相に強い影響力を及ぼしうる立場にいる経済学者としてはどうなのかというとそれは別なんじゃないかと思う。政策判断は学問と違う。学問は知見を更新して修正することは必要だけれども、政策を実行する場合、その政策は一回きりのバクチなのであって、本質的には修正がきかないものではないかと思う。もちろん、ある政策をやってみてうまくいかないから修正します、ということは必要であるけれども、しかしずっとそういう態度でいられては困るのではないか。

大きく言えば、一度戦争をやってみましたがうまくいかないのでやめます、ごめんなさい、というわけにはいかない。

もちろん、経済政策と戦争は大きくことなるし、経済政策のほうが修正の余地がはるかに大きいと思うけれども、しかし根本の部分では両者はそう大きく変わらない。

あるいは中央銀行の副総裁経済学者なのはいいとして、「入ってみてからいろいろ分かりました」と言い出すとか、自分が掲げた目標に職を賭けていたはずなのにいまだに辞めないとかいうのでは、困ってしまうし無責任も甚だしいとしか言いようがない。

昨年死去したヘルムート・シュミットが、最晩年、「近頃の政治家は間違えても死ぬことがないからダメだ」というようなことを言っていたらしい。一度間違えたら命がないぞという緊張感が政治には必要だということだろうが、これは政治家に限らず、政策判断にかかわる人たちはみな同じであるべきだと思う。

政策判断やその実行と学問は根本的に全く異なる、政策判断・実行は一度きりのバクチだ、という認識が、もちろん学者さんたちはそんなことは先刻承知なんでしょうが、でももっと持たれてもいいんじゃないのかな、という印象は持った。

2016-11-15

扇動のための不当表示としての「リフレ派」 part152

本日付の日本経済新聞浜田宏一教授のインタビュー記事が出ていたので、記録として抜粋を残しておきたい。

読んだ感想としては、学者として自分の誤りを認めて訂正する柔軟性は、あの年齢で立派だとは思うものの、内閣官房参与は務まらないのははっきりしているのだから、すぐに責任を認めて辞めるべきだと思う。

学問上の理論と、生きている現実とずれているのは当然だけれど、その理論を現実にはめようとするとき、それは一回きりの賭けであって、そこで絶対に負けない賭けをしないといけない。理論を現実に当てはめるためには、それ相応の準備というものが必要なはずだと思う。

なぜなら、その賭けには、多くの人々の生活や人生がかかっているのだから。

一国の政策を決めるのは、1+1=2、みたいな、簡単に、すんなりと行くわけがない。現実という大きな抵抗がある、あるいは、いろんな変数がある。

その分だけ、慎重であらねばならないのは当然のことだと思う。

その、理論を現実に応用する困難さをあまりにも軽く見積もっていたリフレ派の人たちはどうするんだろうか。

その意味では、黒田日本銀行総裁もそうだけれども、なにより岩田規久男日本銀行総裁は即刻辞任するべきだと思う。なにせ2年で物価上昇率2パーセントにならなければやめると大口を叩いて、まだ居座っているのだから。

リフレ派は、醜悪な財務省陰謀論をあれだけばらまいてきて、自分たちの失敗を認めずに居座っている現状を、いったいどう思っているんだろうか。

・・・

まず浜田教授の紹介文。

ソロス氏に円高投機をやめてくれと直言したことも。

と書いてある。ジョージ・ソロスとそれだけ親交があることを宣伝しているけれども、冗談で言っているならともかく、投資家は利潤が出るかどうかだけ考えているのであって、なんで日本人の経済学者の「直言」をいちいち聞かなきゃならないのかが全く理解できない。

この「直言」という日本語に、非常なこっけいさが漂っているように思う。

以下、リフレに関連しそうな部分を抜粋。

アベノミクスの『第1の矢』では岩田規久男日銀総裁インフレ期待に働きかける政策が効いた

国民にとって一番大事なのは物価ではなく雇用や生産、消費だ。最初の1、2年はうまく働いた。しかし、原油価格の下落や消費税率の5%から8%への引き上げに加え、外国為替市場での投機的な円買いも障害になった

私がかつて『デフレは(通貨供給量の少なさに起因する)マネタリーな現象だ』と主張していたのは事実で、学者として以前言っていたことと考えが変わったことは認めなければならない

ジョージ・ソロス氏の番頭格の人からクリストファー・シムズプリンストン大教授が8月のジャクソンホール会議で発表した論文を紹介され、目からうろこが落ちた。金利がゼロに近くては量的緩和は効かなくなるし、マイナス金利を深堀りすると金融機関のバランスシートを損ねる。今後は減税も含めた財政の拡大が必要だ。もちろん、ただ歳出を増やすのではなく何に使うかは考えないといけない

政府負債である公債中央銀行負債である貨幣は国全体のバランスシートで考えれば民間部門資産でもある。借金は返さずに将来世代に繰り延べることもできる。リカードの考えでは公債は将来の増税と相殺されてしまうが、そこまで合理的な人はいない

私は食料とエネルギーを除く『コアコア』の消費者物価指数インフレ率が安定的に1・5%に達したら、消費税率を1%ずつ引き上げてはどうかと提案している。逆にそれまでは消費増税を凍結すべきだ

金融緩和は『かうものがない』のであれば米国債も選択肢になる。過度な円高を仕掛けた人は介入でとがめればよい

ロシアとの外交では米国の嫌がりそうなこともしているのに、どうして円相場が5円も6円も円高に動いても為替介入ができないのかということだ。財務省米国の嫌がることができるような通貨外交をしてほしい

・・・

どうだろう。私はこれを打ち込みながら、全ての段落に突っ込みを加えたくなった。とくに「ではどうするか」に答えたところから後は、無責任も甚だしいとしかいいようがない。もう十分、自分の見込み違い、自分の考えの安易さに懲りないといけないのに、まだ懲りずに、安易な考えを披歴している様子は、「無責任」という以外に言葉がない。

プロフィールには浜田教授は「80歳」とある。この老人の言うことに耳を貸す政府は、本当におかしい。

そして、この老教授の言うことに今まで付き従ってきた、リフレ派の面々、あるいはリフレを強く支持してきた人々の責任を問いたい。

どういう落とし前をつけるつもりなんだ。

2015-05-31

「東京はどないなっとりまんねん」:「中央」は橋下=維新のシンパばっかりやったんやろ要するに

2009年の記事でも引いた、音楽学の白石知雄先生のブログを久しぶりに見たら、大阪住民投票の感想に違和感を感じなかったので、ここに紹介する。

「嫌な選挙」 - 仕事の日記

大阪の住民の皆さんの投票の開票速報番組が、どーしてNHKやフジテレビの東京キー局から放送されるのか。純然たる大阪の出来事なのに、キャスター大阪入りすることすらなく番組を作るってどういうこっちゃ。

この点、むしろ橋下の扇動家としての能力の高さを認めるべきなんでしょうが。

「背後の匕首」論 - 仕事の日記

くすぶり続けるであろう可哀想なナルシストたちへのケアを含めて、これからが難儀だね。

(「橋下は文化の破壊者ではない、どの団体もつぶれていないじゃないか」と言っている者がいるようだが、数十年存続してきたような音楽団体は、いつの世でもそう簡単にはつぶれないものです。

そもそも、「文化」は目立つから狙われただけだし、彼が発したメッセージは「大阪の帝王となった俺に跪け」であり、それはいわば、格好のイジメの標的になってとばっちり、みたいな話に過ぎない。兆候的な威張り方ではあっても、文化が彼の本命のターゲットだったことは一度もない。便乗して騒いだアホはおったけどね。

そんなこととは関係なく日常は続くのです。)

大阪の帝王となった俺に跪け」をメディアは大いに助けたし、それは東京メディアや人間どもも同じだった。

東京のある政治学者は、以前「維新批判しても相手の手に乗るだけだから無駄」「中央政界への影響は限定的だし」といったことを tweet してて、その見識にほとほとあきれ果てたわけだけれども、現実には住民投票後の記者会見などを聞いていると、憲法改正問題などで中央政界への影響はやはり少なからずあったようであることは、記者たちの質問の仕方から察せられた。

じゃ、なぜ「維新批判するな」と言ってみたり、「またバカサヨが維新批判を(藁」という話になってしまうのか。

本当は、橋下=維新を支持してたからでしょ。橋下の慰安婦問題の扱いで、大っぴらに支持することはできなくなったというだけで(堂々と手のひら返しされているのをみて、どれだけ呆れたことか!)。

市民・国民・ネット民 - 仕事の日記

日本の「中央」にいる人たちの報道は、「大阪在住の日本国民」が右派国家主義改革派)と左派福祉国家維持派)に分かれて争った、という構図だと思う。

そして左派が土壇場で踏ん張ったことは、右派ヘゲモニーを握る「中央政局」の今後を占う試金石になるであろう、云々と解説される。

まずこの構図が全部間違い、ウソだった。

でもねえ、橋下くんが仕掛けたのは、「大阪市民である前に日本国民である前向きなグローバル人間」と、「日本国民である前に大阪市民である後ろ向きなローカル人間」の二択、という構図だと思うんですよ。

都市生活者が市民と国民の二重のアイデンティティをもつのは、ごく当たり前のことなのに、敢えて分けろ、どちらか一方を選べと迫ったわけで、そこが陰惨だったわけです。

で、「中央」の人たちは、「日本国民である前に大阪市民」みたいな心性をあざ笑って一切無視するわけですね。

そこが、「中央の人たちは実はみんな橋下シンパなんじゃないか」という不信を生んでいるんだと思う。

もっとも、レトリックとしては「大阪人の気質が」「大阪人らしさが」云々といった話をよく見た。そういう言い方をすれば、大阪人の琴線に触れるとでも思われていたのではないか。

実際には、橋下=維新は中身がない、実質がないので、イメージだけで煽ろうとしても煽り切れないものがあった。だからコケた。

中央の人たちは、そんなことも分からない。「実はみんな橋下シンパなんじゃないか」という不信は、昨日も書いたように、Twitter の反応を見聞するとかなり正当だった。

ただし、住民投票後に行われた、自民党谷垣幹事長記者会見や石破大臣のブログなどを読むと、橋下=維新の「都構想」を全く支持しない、谷垣幹事長に至っては橋下=維新を露骨に嫌悪しているらしい様子がうかがえたのは非常な救いだった。右派の内部でも、ようはそういう認識の人たちはいたわけですね。

しかもややこしいことに、今のニッポンには、「国民である前にネット民」であるようなスーパーグローバルな思想地図を思い描く人たちがおる(笑)。

そして彼らは、「市民」より「国民」のほうがスーパーグローバルに近いってことで、都構想支持を表明したりするわけだ。

民間人が商売としてゆうてるだけなんで勝手にしたらええけど(笑)。

東京はどないなっとりまんねん、ってことだよね。

ところが、東京は「中央」だと思ってふんぞり返ってるから、「どないなっとりまんねん」とは本人たちはとても自覚してないわけですよ。

もう本当にどうしようもない。