お久しぶりエントリー。

juriano2005-01-31

試験が終って以来何だかPCを立ち上げるのが面倒で、
1週間ばかり試しに放置してみましたこんにちわ。
これから就活って人がそんな一方的に情報を遮断していたら
ダメじゃんという意見も聞こえてきそうですが、
確かに無意識のうちに逃げているのかもしれません。
これではいけない。いや断じていけない。


私は私が幸せになるべく生きる道を選ぶべきなのであって、
そのためにはまず喰わねばならぬ。
喰うとならば御足が必要だ。
御足を稼ぐには労働だ、労働するには就活せねばなるまい。
実に単純明快だ。資本主義だ。よーし私はやるぞ。


人間はナニシロ、お金を稼ぐことが幸せだ。間違いない。
マネー・ザッツワナイウォン。
それが証拠に、お金を持たずに繁華街に出てごらんなさい。
なんと、心細くなってくることか。
野良犬のような気持ちになるでしょう。
お金を持っていると元気になる。これは確かだ。


しかし、お金を持っていても不幸な人間がたくさんいる。
私は実際、ここのところ、街に出るだけで大変悲しい思いをする。
ちょっとした会話が嫌でも耳に入ってくる、話でなくとも、
態度ひとつでもいい、人間の生活は、結局はそういった
表層的なところに最も端的に現れてくるのだ。
そいつの、ペルソナだか何だか、身の処し方や、グチであるとかを
通してそいつの生活が見えてしまう。
本人は真剣に生きているつもりなのだろうが、そのやり方で絶対に
幸せになることはないということが、見えてしまう。


まあ、私の知る限りで、最も不幸な人間は極めて身近な
場所にいるんだけどね。
本日、いたたまれなくて『アメリカン・ビューティー』を再見した。
映画ファンに、知能の足りないお前に何がわかると言われそうだけど
私はこのラストをとても素敵なラストだと思う。
死だとか、死それ自体について考えることをネガティヴと捉える人が、
今の時代大変に多いような気がするけれど、多分、その立場にいる人からしたら
このラストは絶望的で、救いのない重いものでしかないでしょう。
私は死生学の考え方が好きだから、人間は死ぬために生きているし、
死はその人にとって完成だという視点をいつも持っている。
私たちは死ぬことを嫌がるけれど、実は常に細かく死んでいるのだ。
入学、卒業、就職、結婚、これはどれも小さな死だ。
環境が変わって、価値観が変化して、それまでの古い自分が死んで、
つまり新しく転生しているのだ。
ね、ネガティヴどころか、全然建設的な思考でしょう。
死ぬことを嫌がって、古い自分をいつまでも引きずっていたら、
価値観の変化が起こらないからいつまで経っても成長できない。
私が『アメリカン・ビューティー』のラストをいいと言っているのは
象徴的な意味合いで、大変カタルシスを得るからだ。
冒頭でケビン・スペイシーが言っているように、
「ある意味で僕はもう死んでた」のであり、私は、その仮死状態で
生き永らえることの方が、よっぽど絶望的で、救いがないと思う。
私の親父のようにね。
あの映画に出てくる人たちは、皆自分が捨てられない人たちだ。
形のない自負心にとらわれて自分のことをクソ野郎と認めることの
できない人たちだ。
そしてこの類の人間は、圧倒的に多数だと思う。


この話を、就活の話題の後に持ってくるのは何だか大変危なく、
またいかにもモラトリアム的で我ながら情けなくもあり、しかし
現在の一番正直な、私の飛び飛びな思考の流れだから仕方ありますまい。
とにかく、街の人、私を悲しますのはやめてくれ。
幸せになってくれ、頼むから。

『御緩慢玉日記』1巻購入。

すごい。面白かった。
日記漫画とはいえ、これまでとは異質なんだね。
時間軸が戻ったり現在になったり、虚構の要素が濃くなった。
作家として一皮剥けたのでは、と勝手に思っている。


オイオイ玉吉どうしちまったんだよと思う人が大半かもしれないけど。
なまじ、文学部にいる身としては、自分の身辺をネタにする作品は
読み慣れているし、そういう感性が日本人特有のものであることも、
私小説の危うさも、それを相対化することの困難さもそれなりに
分かっている気になっているから、そういった観点で総括してすごいなと。
今までの身辺報告マンガのスタイルを捨てて、過去を描こうとしている
というのは、決してネタに詰まって無理矢理搾り出しているわけじゃなく、
作品に対する意識の変化の現れなんじゃないでしょうか。


そういう意味ではよりつげ義春寄りになってきたと思う。
ただ、つげがともすれば作家性という甘えと紙一重なのに対して
玉吉のは基本があくまでギャグだから、相対化する意味では強い。
これが本当の文学マンガだなんて言ったら、煙たがられるかな。
でも、画風であるとかネタであるとか、玉吉作品のそこかしこにある
パロディのセンスって、本当文学的なんだよなあ。
文学って何かと言えば、いわばパロディのオンパレードなわけでしょ。
古典のモチーフの再生、それが現代小説ではなくなっちまったから
現代文学三島由紀夫までって区別されるわけで。
その効果というのは、つまり作品にパロディを載せることで皆、
元ネタを辿るわけだ。
それによって古い作品が忘れられずに済むし、文化っていうのは
そうやって継承されてくわけだ。
そういう意味じゃ、中坊の時に玉吉さんの作品を読んでなかなか
貴重な辿りができたような気がすんのね。
だから、これはもうあえて文学的体験と断言したいw
なんでこんな暴論に行き着いたか分からないが、玉吉は文学だ!


トク子編って時期は、スクリーントーン貼り始めってことは
防衛漫玉の頃かなあ?
おっとりエロス、じわじわエロイね。
はっ、私エロっていうテーマも完全に自然主義文学じゃん、
「蒲団」じゃん、なんて、きりがないからやめよう。
そうか!卒論のテーマはこれか!
桜玉吉における文学空間』…嘘だけど。