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神保町系オタオタ日記

2007-02-09

[][][] 三上於菟吉早稲田大学応援団長吉岡信敬


三上於菟吉というのは、長谷川時雨内縁の夫だった人らしいが、早稲田大学時代、吉岡信敬の指揮下で応援したことを回想している*1



そして、同時に、二十二三年前、その当時の早稲田応援団長吉岡信敬氏に指揮されて、Wと白く染抜いた赤い三角旗を振つて、フレ、フレ、ワセダ!を、叫んでゐた青春時代の自分を思ひ出す。

その頃の応援団は今のやうな人数もなければ、纏つた組織もなく、況んや楽隊なんかはなく、烏の如く群れ集つた集団だつた。しかし母校愛と野球情熱については、決して現在の諸君に譲るものではない。否、もつと気違ひじみて、もつと荒れ馬だつた。比較的悪彌次なぞは飛ばさず、声がかれ、咽喉から文字通り血を出しつつ、吉岡氏の音頭で、校歌を怒鳴り『見やわれ等の野球団』といふ、たつた一つの応援歌を繰り返へして怒鳴り、勝てば跳躍し、相抱いて泣き、負ければベタリと地上に坐つて、手放しで号泣した。


ちなみに、三上は秋田雨雀の日記にもしばしば登場する。たとえば、次のような一日がある。


大正8年11月9日 午後から、藤森成吉の「新しい地」の批評を執筆。午後六時ごろまでに脱稿。十一枚。「婦人之友」社により、その足で加能君のところへ原稿をとどけるためにゆき、途中三上君のところにより、坂本紅蓮洞にあった。


「加能」つまり、加能作次郎は当時、博文館『文章世界』の編集主任。


三上は明治24年2月生まれ、明治44年早稲田大学文科予科入学、1年半ほどで中退。昭和19年に亡くなった時の告別式について、『秋田雨雀日記』第3巻から引用しておこう。


昭和19年2月18日 正午から青山斎場の三上於菟吉の告別式に臨んだ。(略)文学国会代表徳富蘇峰、小説部会代表白井喬二、友人代表谷崎精二、つづいて松竹の大谷竹次郎氏が弔詞を朗読していた。


はてな上に三上のキーワードはあるが、谷崎精二のキーワードは作られていない・・・

ウィキペディア上にはあるが、最近アクセスにやたら時間がかかるのはなぜだろう。

*1:「球狂今昔」(『現代』昭和7年6月)、『随筆わが漂泊』(サイレン社、昭和10年6月)所収。

jun-jun1965jun-jun1965 2007/02/13 01:21 内縁の夫? 入籍していなかったのかな。堂々たる夫婦だと思っていました。

神保町のオタ神保町のオタ 2007/02/13 06:19 入籍はしていなかったとありました。根拠は、すぐ出てこないので、少々お待ちください。

神保町のオタ神保町のオタ 2007/02/13 18:15 あれこれ見たのでわからなくなってしまい、出典を確認するのが遅くなりました。『雪之丞変化(下)』(講談社大衆文学館、1995年7月)の巻末エッセイ、岩橋邦枝「絆のつよい作家夫婦」に「彼が二十八歳、時雨四十歳の大正八年に二人は正式に世帯を持つ。戸籍上は内縁関係のまま一生通した。」とあります。

jun-jun1965jun-jun1965 2007/02/16 02:05 内縁関係で正式に世帯って、住民票のことかな? 確かに著作権継承者は別だ。

神保町のオタ神保町のオタ 2007/02/16 06:12 通い婚状態から、同居へ移行かと思ってましたが、もう少し調べてみます。

神保町のオタ神保町のオタ 2007/02/16 18:11 「時雨は、鶴見、生麦と赤城下の家を往復する生活を三年ほど続けた。三上於莵吉と正式に世帯をもったのは、父深造が亡くなった翌年、乳呑み児から育てた甥の仁も学齢に達してようやく肩の荷が軽くなった、大正八年春だった。(略)
時雨は生麦の家をたたみ、於莵吉が牛込赤城下から引越した矢来町の借家で結婚生活に入った。(略)時雨と於莵吉は、戸籍上は婚姻せずに内縁関係で、そのまま一生通している。」(岩橋邦枝『評伝長谷川時雨』(講談社文芸文庫、1999年11月)


「正式に」という言葉に法的な意味はなさそうです。

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