mostly what i need from u

昨日は製薬会社MRの方が主催していただいた食事会。俗に言うなら「接待」というやつがあった。
効果的にはほぼ同じ製剤が2社から販売されており、価格も大きく違いはない場合、どちらの製剤を使うかは医師の裁量に任されており、各社営業MRの情報提供量、人格的な話しやすさ、頼みやすさなどが選択の根拠になってくる部分もある。その観点から、このような「懇親会」が開かれる場合がある。
そのMRの方個人にどんなに人格的な魅力があろうと、私と趣味やうまが合う方であろうと、向こうの目的が「営業」である以上、私はMRの方と友人になれるとは思っていない。

こういうことを考えるとき、私の根本的な人間不信の出発点となった幼少時の経験を思い出す。人間不信という言い方も不適切で、本来人間同士はこういう自己利益関心的な交わり方しかできない、というむしろ人間に対する信頼と言うのが適切かもしれない。http://d.hatena.ne.jp/kabalah/20041110#p2
確か小学校低学年の頃、私は昆虫採集が好きで虫取り網を持ってはそこらへんの虫を捕まえていた。そんなとき、父の紹介で趣味でチョウの採集をしているMRの方にいろいろ教えてもらう機会があった。蝶の殺し方、標本の作り方、いろいろと教えてもらった。そのMRの方に山奥に連れて行ってもらって、たくさん蝶を採取するようなことも喜んでやっていた。そうして私なりの蝶の標本のコレクションができていったのだが。
あるとき、そのMRの方が、私の採集した蝶の中に珍しい個体がいると言い出した。この辺で取れるはずのない蝶であり、新種発見の可能性があると。そこで学会に標本を提出したところ、新種と認められ、私の名前が新種の発見者として蝶の雑誌に載った。
子供の私はまだ誰も見つけたことのない新種を自分が見つけたことに有頂天になり、その雑誌を大切に保存していた。
しかし、何度か繰り返しその蝶を見てみても、自分がその蝶を取ったという記憶がなかった。もちろんたくさん蝶を捕まえていたから、捕まえたことを忘れていたのかもしれないが、どうも自分で捕まえた蝶とは思えなかった。そして、大きくになるにつれ、MRという職業の方が、父に対してどういう関心を抱いて接しているのかということを知るようになり、間接的に父を喜ばせるという目的のために、この新種の蝶が私の虫かごに忍びこまされた可能性に思い至るようになった。
あくまで可能性のことであり、結局誰が捕まえた蝶だったのか今となっても判然としない。けれども、そういう可能性に思い至ったときの幼少時の私の失望は大きかった。有頂天になっていた自分が馬鹿みたいだった。
このときから、私は自分の周りの人間が、自分に対して好意を示すような場合、その裏にどういう自己利益的関心が潜んでいるのかを常に考慮するようになった。それを悲しいとか冷たいとする心情こそがむしろ錯覚であり、正しく相手の意図を知ることが人間関係において重要であるという風に自分を説得してやってきた。
そういう積み重ねの結果なのか私個人の人格に問題があるのかは不明だが、私には学生時代の遠く離れてしまった友人たち以外に友人と呼べる存在がほとんどいない。幼少時から過ごしてきたこの田舎においてもそういう友人ができそうな気配はない。あくまで仕事の上での付き合いか、近所付き合い、社会的な付き合いが延々とこの先続いていくかと思うと味気なく思う部分もある。
そんなことも気にならないほど打ち込める趣味があるといいのだが。一人で自分の納得がいくまで創作活動を続ける、そういう時間の過ごし方ができれば、友人がいるかどうかなどあまり気にならなくなると思う。