指先から群島へ。北里義之「サウンド・アナトミア」

サウンド・アナトミア―高柳昌行の探究と音響の起源 年末に北里義之氏の「サウンド・アナトミア」を読み、以来、この本について折りに触れて考えることがあった。

 本の副題には「高柳昌行の探求と音響の起源」とあるけれども、じつを言えば、ぼく自身は、高柳昌行の音楽の熱心な受け手であったとは言い難い。だから、この本の前半に書かれている数々の論考については、具体的な音楽や活動を思い浮かべながら読むというよりは、あくまでことばで構築されたものの中からなにがしかを汲み取ったというにとどまった。
 そのせいもあって、前半を読んでいる間は、そこでキーワードとして扱われている「汎」あるいは「投射」ということばに、必ずしもピンと来るものがなかったというのが正直なところだ。

 しかし、後半、特に大谷能生の「ジョン・ケージは関係ない」に答える形で、フーコーの「臨床医学の誕生」を軸に書き進められた論考からは一気に読んだ。大谷能生の論は批判的に読み進められているものの、そこでぼくが深く感じ入ったのは、北里氏が大谷氏の「指先」への感覚を繰り返し訪れながらそれを豊かな糧として読み取っているところだった。

 終盤、そこから吉増剛造+今福龍太の群島論にさしかかるところに至って、ようやく、音楽と医療介護を結びつけた、この本の深い企みに気づいた。ともすれば感傷的に受け取られかねない「世界一小さな私」ということばに含まれる「世界」が、群島を経由して注意深くまなざされ/聴き取られ、裏返されようとしている。

 以来、身体を聴くことを契機に、フーコーのまなざし論を視覚の問題から聴くことへとシフトさせたこの本のことについて、あれこれと考えるようになった。

 身体という耳障りのよいことばは、ともすると空疎なお題目になりやすい。しかし、この本は、視覚と聴覚(さらには指先という触覚)の係留点として身体を扱うことで、身体のあり方をより具体的なものにしている。
 さらに、Sachiko Mや中村としまるらの演奏を「音響臓器の内側から、体内を照らし出すようにやってきたサウンド」と捉えるその感覚の先には、単に個人の身体だけでなく、まなざす/まなざされる、聴く/聴かれる、触る/触られるという個人間の関係を開かれているように読める。

 これらの身体論に感じられるスタンスの確かさは、著者が、肉親の介護という生活の中で汲み取ってきたものなのかもしれない。

 このところあまりまとまったことを書く余裕がなかったが、そろそろこの本から得た考えを少しずつ文章にしておこうと思う。

 この先の日記で、音楽の話の頻度が多くなると思うけれども、それは何らかの形で北里氏の論考から得た手がかりを活かす試みになるだろう。身体を係留する手だてがなんとか見つかるように書き進めたい。