海豹の37 闇に輝く光明

   闇に輝く光明

 一日の中に両眼が潰れてしまった美しい万龍は、診察室から出て来るなり、ベンチの上に泣倒れて、暫くの間身動きもしなかった。
 然し、こんな処で泣倒れてゐても仕方がないので。何処か、無料の病院にでも頼んで、眼の治るまで治療さして貰ふことに、勇とかめ子は方針を決めた。それにしても、万龍の原籍が知りたかったので、勇は、万龍に彼女の原籍を尋ねてみた。それによって、彼女が、大阪府下八尾町の女であることを、勇は、初めて知った。それまで、彼女が。御手洗の女であるとばかり思ってゐた。勇は、大学の学用患者に加へてくれないかと、大学病院の受付できいてみたが、満員だから駄目だ、と断られた。然し、済生会の病院か、市立病院であれば、無料で入れると聞かされたので、彼は天王寺の市立病院ヘタクシーを飛ばした。そこは飛田遊廓の近くにある天下茶屋の美しい岡の上に建てられた堂々たる病院であった。無料の入院を許可して欲しいと受付で頼むと、原籍地は何処かと尋ねられた。それで、大阪府下八尾町の者だと答へると、こゝは、大阪市在住のものでなければ入院出来ないから、済生会に廻れと断られた。
 大阪の様子が判らない勇は、ほとほと弱ってしまひ、
『――ぢゃあ、なんですか、大阪市内に居住して居ればいゝんですね?』
『あ、さうです。保証人が要りますよ。保証人がありますか?』
 その答を聞いて、村上勇がすぐ思出した名は、よく新聞に出てゐる天王寺大原社会問題研究所であった。それは、彼の母が、備中倉敷の大原の作った倉敷病院に入院してゐるために、すぐ思ひつかれたのであった。そこで彼は、市立病院の待合室に二人を残しておいて、十数町しか離れてゐない天王寺悲田院町大原社会問題研究所に、タクシーを飛ばした。事情を話しすると、
『この坂の下に愛染園といふ社会事業団体があって、そこに富田将吉さんといふ人がゐるから、その人に頼んだがいゝだらう。その人は親切な人で、万事引受けてくれるだらうから』
 さういって、名刺に紹介状を書いてくれた。その事務員の親切を感謝しながら、彼はすぐ、歩いて坂を下った。そしてきたない家の建てこもった貧民窟の真中にある、小学佼のやうな感じのする『石井記念愛染園』に入った。そこは日本造りの二階建ての家であった。中から幼稚園の子供の歌ふ可愛らしい声が聞こえてきた。構内は割合に広く、葉の散った葡萄の棚の下に、砂場などがあって、如何にも愛らしく造られてゐた。取次に出てきた人は、保姆さんの一人らしい。縦縞のエプロンを掛けて、叮嚀なお辞儀をした。
『富田先生はお出ででせうか?』
 と訊くと、その保姆さんはすぐ奥に引込んだ。それと入換りに、背の低い、人の好ささうな、胡麻塩まじりの、縞の羽織を着た富田先生が出てきた。
『まあ、お上りなさい』
 と、富田先生は、村上勇を見るなり。先方から挨拶をした。然し、勇は急いでゐたので立話をした。
『あ、さうですか! そりゃお困りですね。ぢゃあ、私が引受けてあげませう。すぐ電話をかけてあげます。ちよっとお待ち下さい。あの院長と私は心安いですから、多分引受けてくれるでせう』
 富田先生はすぐ電話室に走り込まれた。そして一分も経たぬ中に、また廊下に出て来て、そこに立ってゐた村上勇に、
『入院出来さうですよ。しかし、念のために私がついて行ってあげませう』
 というた。勇は、富田先生の親切に感激した。
『此処は狭いですからね、タクシーが入ってきませんから、二、三町歩いて、日木橋通まで出ませう』
 さういひながら、背の低い富田光生は、先に立って、すたすた歩き出した。日本橋通五丁目でタクシーを拾ひ、二人はまた市立病院に舞戻った。入院はすぐ許可された。すると、富田先生は、すぐ何処かに用事があるといって、その儘消えてしまはれた。地獄で天の使に会った以上に嬉しかった三人は厚く御礼をいふ機会もなく、富田先生はさっさと帰って行かれるので、村上勇は、『要領のいゝ人だなア』と感心して彼を見送った。

  握った手と手

 入院はさせたものの、勇にもかめ子にもなほ不安が残ってゐた。それは万龍の家庭は貧乏でとても小遣銭は送って来られないし、又少しよくなっても家には帰れない事情があるといふ事を、かめ子は直接万龍から聞いて、勇の耳に入れた。彼女は私生児で御手洗に貰はれて来てゐたのであった。
 何でも、万龍の養父といふのは、小さい請負師兼漁師だったさうだが、大正九年の恐慌にすっかり破産してしまひ、その後、妻に死に別れ、後妻を娶ったが、その後妻に子が出来てからといふものは、万龍も家に居難くなり。父がいふ儘に、最初松島に身売りし、とうとう松島から、木ノ江まで流れて行くやうになったのだと、かめ子は、彼女の家の事情を精しく勇に物語った。
『同じ腹の兄弟に男の子が一人あるさうですが、丁稚に行ってゐて、小遣を送るだけの力が無いさうです。手紙もこの半年位少しも来ないから、ほんとのお父さんがどうしてゐるか知らないさうです』
 とかめ子は付け加へた。
 然し、念のために、かめ子を八尾町の万能の家にやることにした。そして、勇は、木ノ江の、『玉の家』といふお茶屋に電報を打
って、「マンリユウシツメイシタオオサカテノノウジ シリツビヨウインニニユウインスアトフミ」と知らせてやった。
 その日の午後二時に、すぐ手術があった。手術室から出てきた万龍は、一日前の美しい姿はなかった。両眼の上を、くるくる幾十回となく、ガーゼで巻き重ね、看護婦に手をひかれながら手術室から出てきた時には。勇も可哀さうになって、ほろりとした。万龍は一言も物をいはなかった。然し、勇は、万龍が喉がかわいてゐるだらうと思って、売店から蜜柑を買ひ求め、その汁を絞って飲ませてやった。さうしてゐる処へ、八尾から、万龍の実父の妻だといはれる人が、かめ子に連れられて入ってきた。見ると万龍とあまり年が違ってゐない二十八、九の女であった。三つになる、やんちゃ小僧の手を引きながらやってきた。そして叮嚀なお辞儀を勇にした。
『私は、この中村栄子(それか万龍の本名であった)の父の代りに、あなたに御礼をいひにまゐりました。ほんとに御難儀をかけまして、何とも申訳がありません。中村は恰度、奈良の方に用事がございまして留守いたして居りますので、帰って参りましたら、今夜にでもまゐることでございますが、……ほんとに、突然のことでございますし、私もびっくり致しましてございます』
 さういひながら、顔色の悪い、玄人風の着こなしをした彼女は、ベッドの傍にしゃがんだ。
『栄子さん、ちょっとお見舞に参りました。ほんとにお気の毒でしたね』
 さういって、しはがれ声で、栄子の父の妻にあたる女は、栄子の枕許で声をかけた。然し、万能は、ちょっと頭を上げて、小さい声で、
『済みません』
 といっただけで、それ以上何も彼女にいはなかった。
 黄昏がだんだん近づいた。紀州勝浦行きの出帆の時間が迫った。それで、勇は、万事をかめ子に托して、二日だけ勝浦に行ってくることにした。
『ぢゃあ、行ってきますから、失望しないで、しっかりしていらっしゃいね』
 と、勇が、万龍の手を握って、力強い言葉でいふと、彼女は黙って、両手で勇の手を握り〆め、それを放さうとはしなかった。そして、たゞ声をあげて、しくしく泣いた。その光景を見て、かめ子も俯向いたまゝ、襦袢の片袖で涙を拭き続けた。
『二日すればね、また来ますから、少しの間、待っとって頂戴』
 さういって、放さない手を無理に放させ、十円礼をかめ子に渡して、すぐ門を出た。