「螺旋の円環」の旅

月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふるものは、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊のおもひやまず、海浜にさすらへて、去年の秋江上の破屋に、蜘の古巣をはらひて、やゝ年も暮、春立つ霞の空に、白川の関こえむと、そゞろがみの、物につきてこゝろをくるはせ、道祖神のまねきにあひて、取もの手につかず。もゝ引の破をつゞり、笠の緒付かへて、三里に灸すゆるより、松嶋の月先心にかゝりて、住る方は人に譲りて、杉風が別墅に移るに、

  草の戸も住替る代ぞ雛の家

面八句を庵の柱に懸置。

弥生も末の七日、明ぼのゝ空朧々として、月ハ有あけにて、ひかりおさまれる物から、富士の峯幽に見えて、上野谷中の花の梢、又いつかはと心ぼそし。むつましきかぎりは宵よりつどひて、舟に乗りて送る。千じゆと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそゝぐ。

  行春や鳥啼魚の目ハ泪

元禄二年九月六日〔1689.10.18〕

旅のものうさも、いまだやまざるに、長月六日になれば、伊勢の遷宮おがまんと、又ふねに乗て、

  蛤のふたみに別行秋ぞ

曾良随行日記)

六日 同(天気吉)。辰尅出船。木因、馳走。越人、船場迄送ル。如行、今一人、三リ送ル。餞別有。申ノ上尅、杉江ヘ着。予、長禅寺ヘ上テ、陸ヲスグニ大智院ヘ到。舟ハ弱半時程遲シ。七左・玄忠由軒来テ翁ニ遇ス。


この別れを大垣蕉門の人々との別れと限定して読むと、おもしろさが逃げてしまうような気がします。「ほそ道」は別れで始まり、別れで終わる結構をとっていることに注目するならば、全編に分散するさまざまな別れの総括であると読むことが可能であろうと思われるのですが・・・。

ところで、「伊勢」に向かうのは再会を果たした「蘇生のもの」芭蕉曾良だけではない。「見えがくれ」の「伊勢参宮」の同行がいるのだ。
というわけで、この「伊勢に向けての別れ」を、市振で一家に寝た二人の若き遊女も芭蕉の分身であったことに---「同行」曾良芭蕉の分身(影身)であるように---思い至らせる、しかけと読むのも一興かと思う。
「白波のよする汀に、身をはふらかし、あまのこの世を、あさましう下りて、定めなき契、日々の業因、いかにつたなし」は、遊女に投げられたことばであると同時に、旅人芭蕉自身にも向けられているのではなかろうか。(「遊女」の「遊」に、「遊行」の「遊」を重ねてもみるのもおもしろい・・・)

などと、とんでもない空想に浸っているうちに、「おくのほそ道」も終わりを迎えました。「奥羽長途の行脚、《たゞかりそめに》思ひ立」って、芭蕉曾良のお供をしてきました。
いっしょに5か月、156日〔弥生末の七日〜長月六日〕の長きにわたり、いたらぬ奇行に「同行」していただいた皆さん、ほんとうに有り難うございました。
(再録に当たっては、7月28日〜9月26日の2か月間、よんどころない事情で休ませていただきました。少しづつ補っていく予定です。)

芭蕉の「おくのほそ道」は、出発点に立ち戻るという「閉じられた環」の旅ではなく、果てることを知らない「螺旋の円環」の旅のようです。

 〔如水日記〕

四日
一 桃青事(門弟ハ、芭蕉ト呼)、如行方に泊り、所労昨日より本復の旨承るに付き、種々申し、他者故、室下屋にて、自分病中といへども忍びにて初めて之を招き対顔。その歳四拾六、生国は伊賀の由。(一部略)
尾張地の俳諧者越人・伊勢路曾良両人に誘引せられ、近日大神宮御遷宮これ有る故、拝みに伊勢の方へ一両日の内におもむくといへり。今日芭蕉体は布裏の本綿小袖(帷子ヲ綿入トス。墨染)、細帯に布の編服。路通は白き木綿の小袖。数珠を手に掛くる。心底計り難けれども、浮世を安く見なし、諂はず奢らざる有様也。

五日
一 芭蕉・路通明日伊勢の地へ越ゆる由申すに付き、風防のため南蛮酒一樽・紙子二表、両人の頭巾等の用意に仕り候様に、旅宿の亭主竹島六郎兵衛ところまで申し遣はし畢ぬ。



貴重な証言に満ちていますね。

「心底計り難けれども、浮世を安く見なし、諂はず奢らざる有様也。」

ところで、如水が芭蕉の宿に贈ったという「南蛮酒」とは何だったのでしょう。そもそもどうして如水の手元にあったのでしょうか・・・。

伊勢への旅立ちは、間近。。。

元禄二年九月五日〔1689.10.17〕

大垣の庄に入ば、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外、したしき人々、日夜とふらひて、蘇生のものに、あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。

曾良随行日記)

○五日 同(天気吉)。

芭蕉は、曾良の来垣を待っていたのではなかろうか。(逆に言えば、曾良は伊勢への旅立ちの日を計算にいれて大垣に着いたようだ。)
昨日、戸田如水を訪れた際、そのことを告げていることが、如水の日記からうかがわれる。
元禄二年は二十年に一度の伊勢遷宮の年だったとのこと。十日が内宮の、十三日が外宮の遷宮式である。(伊勢に着いたのは、結局は十一日だった。)

元禄二年九月四日〔1689.10.16〕

大垣の庄に入ば、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外、したしき人々、日夜とふらひて、蘇生のものに、あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。

曾良随行日記)

○四日 天気吉。源兵ヘ、会ニテ行。

この日、家老の戸田如水亭でも会があったし(←「如水日記」)、曾良日記にもみられるように大垣藩士・浅井左柳(源兵衛)の左柳亭でも会があたようである。


〔如水亭/六吟一巡〕
籠り居て木の実草の実拾はばや  芭蕉
御影尋ねん松の戸の月  如水
(以下略)

〔如水亭/三吟三つ物〕
それぞれに分けつくされし庭の秋  路通
ために打ちたる水の冷やか   如水
池の蟹月待つ岩に這ひ出でて   芭蕉


〔左柳亭/十二吟歌仙〕
 はやう咲く

初折表
はやう咲九日も近し宿の菊   芭蕉
心うきたつ宵月の露      左柳
新畠去年の鶉の啼出して    路通 
雲うすうすと山の重り     文鳥
酒飲のくせに障子を明たがり   越人
なをおかしくも文をくるはす   如行

初折裏
足のうらなでゝ眠をすゝめけり  荊口
年をわすれて衾をかぶりぬ    此筋
二人目の妻にこゝろや解ぬらん  木因
けづり鰹に精進落たり      残香
とかくして灸する座をのがれ出  曾良
書物のうちの虫はらひ捨     斜嶺
飽果し旅も此頃恋しくて      柳
歯ぬけとなれば貝も吹かれず    蕉
月寒く頭巾をあぶりてかぶる也   鳥
あかつき替わる宵の分別      口 
一棒にあづかる山の花咲て     通
塩すくひ込春の糠味噌       人

名残表
万歳の姿斗はいかめしく      因
村はづれまで犬に追わるゝ     嶺
はなし聞行脚の道のおもしろさ   筋
二代上手の医はなかりけり     香
揚弓の工するほどむつかしき    良
烏帽子かぶらぬ髪もうすくて    行
冬籠物覚ての大雪に        柳
茶の立ちやうも不案内なる     鳥   
美くしう顔生付物憂さよ      人
尼に成べき宵のきにぎぬ      通
月影に鎧とやらを見透して     蕉
萩とぞ思ふ一株の萩        口

名残裏
何事も盆を仕舞て暇に成り     筋
追手も連に誘ふ参宮        良
丸腰に捨て中なか暮しよき     香   
ものゝわけ知る母の尊き      因
花の陰鎌倉どのの草まくら     行
梅山吹にのこるつぎ歌       嶺



初折裏
足のうらなでゝ眠をすゝめけり  荊口
年をわすれて衾をかぶりぬ    此筋

歯ぬけとなれば貝も吹かれず    蕉
月寒く頭巾をあぶりてかぶる也   鳥

飄々として、良いですね。私位の年になると、「そのとおり」と声をかけたくなります。このような俳味のある歌仙、時代を超えて楽しめます。

元禄二年九月三日〔1689.10.15〕

大垣の庄に入ば、如行が家に入集る。前川子、荊口父子、其外、したしき人々、日夜とふらひて、蘇生のものに、あふがごとく、且、よろこび、且、いたハる。

曾良随行日記)

○三日 辰ノ尅、立。乍行春老ヘ寄。及夕、大垣ニ着。天気吉。此夜、木因ニ会、息弥兵ヘヲ呼ニ遣セドモ不行。予ニ先達て越人着故、コレハ行。

この日の曾良がよくわかりません。夕方、大垣についてまずは芭蕉に再会したと思われるのですが、はっきりとした記述がありません。これはやはり謎です。
かってに推測するに、曾良は如行亭で、芭蕉と再会。大垣に先に着いていた越人が芭蕉と、谷木因亭での俳莚にでかけ、曾良は如行亭で疲れいやしのために休んでいたのでしょう。


この日の八吟半歌仙が残されているようですが、この半歌仙が、上記の「会」のものなのか別のものなのか、私にはわかっていません。
しかもこの半歌仙、第三句までわかっていますがあとは、きちんと資料にあたっていませんので、不知。(↓参照。ある資料の孫引き)
さらに発句が不知になっていますが、これも不知じゃ、しゃれにもなりません(笑)。木因のことでしょうか。


野嵐に鳩吹き立つる行脚哉  不知
山に別るる日を萩の露   荊口
初月やまづ西窓をはづすらん   翁
    (すみません。あと未調査です)