まともな文献

私が日々扱っている文献は、一点を除いては、まっとうな「文学史」上には決して現れることのない文献である。どれくらいまっとうでないかというと、古本屋で3000円で買った写本が新出資料になるとかというレベルである。
そういう道を歩んでいたので、変な文献を扱うについてはどんな変なものがでてきても動じることはないという気になっている。
しかし、ことここに及んで、『大正新脩大蔵経』に納められている文献を扱うことになるかもしれないという事態が発生した。
3000円の写本に喜んでいる身としては、信じられない事態である。こんなものをあつかいきれるであろうか。

気がつくと高い山に登っていた

博士課程の一回生とお話をする。
今の世の中では、3年で博士論文を出さなければならないことになっているらしい。
本人は、とにかく目の前にあるものを処理していきながらどうなるか考えたい、といっている。
私は、5年くらいおるつもりやったらそれでもええけど、3年でD論かくつもりやったら、目の前のもんを処理していくだけではまとまらんで。これをしたい、そのためにはこれとこれを処理していく、という感じで、その「これとこれ」が論文なみのもんになっていかな無理やで。それでも3年はしんどいで、とかいう。
人にはそんなことを分かったようにいっているが、私は、博士課程在学当時、そんなことは微塵も考えず(今から考えると、だれかそういうことを言ってくれは人はいたようには思われる。。。)、なんかわからんまま目の前にあるものを処理していっていただけではあるが(そして5年在籍していた)。。。
目の前のものをみてふらふらいったり戻ったり、遠回りしたりして歩いている内に、気がついたら(富士山とはいわんので)それなりに高い山の上にきていた、というほうが、なんかどこへいくかわからん感じで私としては好ましく思える。しかし、この方法で3年でD論かくのはやっぱり無理なんだろうな。
けど、目標を見つめて、脇目もふらず、道草なんか以ての外、突進あるのみ、というやり方はやっぱりおもしろくないなぁ。