駒場寮とか吉田寮とか、旧帝大系の自治寮というのは、部屋に勝手に人が入ってきたりしていた。全然知らない人が自分の布団に寝ていたりした。
ふつうのアパートでそういうことがあるのかどうか知らないが、ぼくが大学で学生運動をやっていたときは、個人宅がたまり場のようになっていて、同じようなことが起きていた。おちおちマスターベーションもできないのである。
こういう空間があるマンガと言えば、真っ先に思い浮かぶのは『めぞん一刻』である。主人公の五代の部屋で毎日のように酒盛りがされて、万年床にみんな入っているという光景は、まぎれもなく80年代の学生下宿の風景であろう。当時の独身社会人のアパートがどうなっていたのかはよく知らんが。
現代のアパートマンガといえば、たとえば宮原るり『僕らはみんな河合荘』などが思い出されるけども、個々の部屋のプライバシーが前提になっているよね。いや、主人公の宇佐と、城崎はアコーディオンカーテンでしかしきられていなくてときどき宇佐の布団で城崎が寝ているけども。
ウラモトユウコ『椿荘101号室』は、こういうプライバシーが解体・崩壊している。
依存体質の主人公・春子は、それが過ぎて同棲中彼氏に愛想をつかされ、別れることに。行き当たりばったりで入った不動産屋で紹介されたボロアパート「椿荘」に入ることになる。
椿荘の住民は変人ばかりで、食事やサービスに何でも金をとる磯谷、部屋全体を風呂場にしてしまった加納、学生時代に起業した社長である亀井、偽装家族である「田中」一家などだ。
2階にある臼井という住人の部屋は談話室のように使われている。『めぞん一刻』でいうと五代の部屋のように使われている。あまりにみんなが勝手にパソコンや冷蔵庫、飯台を使うので、春子はてっきり談話室だと思い込んでいたが、臼井が遠慮がちに「そろそろ寝たいんで明日にしてもらってもいいですか」と断って春子を部屋から追い出す段になってようやくそこが臼井個人の部屋であることに気づく。読者であるぼくもあっけにとられて、痛快である。
「ダメ人間」である春子の食事は、料金をとりながらではあるが磯谷が面倒をみている。仕事探しの雑誌は、自分が読んだあとに不動産屋・物部が春子のところに捨てていく。春子の就職のための履歴書は、みんなが面白半分であれこれ意見を言う。談話室は臼井が提供する。
ついでにいえば、春子の友人、鈴子は椿荘には住んでいないが、しっかり者で、春子を叱責しながら何くれとなく面倒をみている。
こんな具合に、濃いシェアハウスになっているし、人間関係も濃密なコミュニティになっている。
ただし、できるだけ湿っぽくならないように、滑稽とも思えるドライさを強調して描かれてはいるが(金の亡者のようにして食事代をとったりするところなど)。
ダメな春子が巻き込まれている日常を描いているが、同時に春子を支えるコミュニティを描いているともいえる。
春子の家族関係は詳細にはわからないけども、2巻の終わりに春子をふくめた4姉妹の短編が載っている。両親がどうも不在のようなのだが、基本的にしっかり者の姉たちがいて、そういう意味では春子はめぐまれた家族環境にある。
だから、春子は貧しくてだらしないのだが、そこにはひりつくような過酷さ、お金はもとよりすべての社会関係資本から断ち切られた様子、すなわち「貧困」がない。
もしもお金がなくっても、椿荘をめぐるようなコミュニティがあれば生きていけるなあと思わせるユートピアでもある。
春子は「まわりの人間が世話を焼きたがる」ふうにもうちょっと…
実業家である亀井は、就職にあたっての何の才能もないとされた春子を見ながら、
しかしこれだけまわりの人間が世話を焼きたがるのも
ある種の才能……だけどね
と心の中でつぶやく。
作者のウラモトは、春子をそんな存在として描きたいようだ。
しかし、残念ながらこの点では今ひとつ成功していない気がする。いや、ある程度描けているんだけど、もう少しこう……なんとかならないだろうか。
春子はただの「ダメ」で「甘えっ子」みたいな感じがして、鈴子ではないが、身近にいたら正直イライラするんじゃないか。
安野モヨコ『働きマン』でぜんぜん働かないのに、彼女の仕事の穴があいたとたんにイキイキとフォローされる人間・梶が登場するが、梶が仕事をしないのに許されて男どもの支えを得られるのは基本的に「美人だから」ということがある。でも、それだけではない。
『働きマン』ではなぜ梶がそういう存在なのかということを論理的には描いていないが、「たしかにそういうやつがいる」ということだけは間違いない。
春子がもし人からフォローされたがる存在だとすれば、何かそこに論理的な構造を描かないといけないと思う。
たとえばものすごく愛嬌があったり、あるいは、ものすごく不安げな感じがあったりする場合だ。この論理構造は、春子の最初の彼氏、タカシがなぜ春子に惚れるにいたったかを示すうえでも効いてくるはずだ。1巻でそれが描かれているのだけどもちょっと説得力にとぼしい。
ただ、「論理的に描け」ということはあまりよくない注文かもしれない。
ぼくがこのマンガを手に取ったのは、表紙だった。
1巻と2巻の表紙になっている春子がとても愛らしかった。そういう風貌や仕草が与える愛らしさゆえに、「手をさしのべたくなる」ということもあるかもしれない。*1
春子が無造作なTシャツと半ズボンで、臼井の部屋の飯台の椅子に体操座りみたいにして座っているようすとか、麻雀をうまくならべられず「ガッシャン」と崩してしまう仕草とか、たしかにかわいい。うちの7歳児のようだ。そういう細かい仕草が積み重ねられていけば、無条件になにか支えてやりたくなってしまうのかもしれない。鈴子ががみがみと叱りながら面倒をみてしまうのは、うちの娘に対するわが夫婦と同じで、春子が子どもっぽいからだろう。
ウラモトには失礼な言い草になるが、マネできそうな絵柄だと思って、ここのところ毎日ノートの端にこの絵を模写している。手の表情の付け方とか、体の一つひとつの仕草がよく考えられていて、実際にはぼくのような素人がまねできるようなものではないのかもしれないが。
関係ないが、『椿荘101号室』というのは柳家喬太郎の演目「すみれ荘201号室」を思い出すネーミングだ。作者はファンだろうか。