重なる出会いの果てに

赤目四十八瀧心中未遂

一冊の本との出会いにはさまざまなパターンがあるが、その本にまつわる出来事が偶然のように重なり合って興味を抱き、最終的にその本の現物と出会ったとき、すでに買うという選択肢しか選び取れないような状況に立っていることがある。こんなことを書くとさも迷惑な出会いのようであるが、事実は逆で、偶然の符合に驚き、出会いを喜んで購入するのである。
その本とは、車谷長吉さんの直木賞受賞作赤目四十八瀧心中未遂*1(文春文庫)だ。
本書を読むに至るまでの記憶をたどりなおせば、最初は昨年9月に横浜の映画館シネマジャックに「自由学校」を観に行ったとき、姉妹館横浜日劇で本作を原作とした映画が上映されるというポスターが貼られてあり、気になったこと。もとより映画は当初横浜日劇に加え2館で上映されたのみだったが、寺島しのぶさん主演のこの映画はその後相次いで映画関係の賞を獲得して話題になっていることは言うまでもない。
次いで田口久美子『書店風雲録』本の雑誌社→2003/12/22条)を読んで、作者車谷さんが一時期西武グループに勤めていたという事実を知り、車谷長吉という作家に興味を抱いたこと。あの風貌とサラリーマン生活がつながらなかったのだった。
さらに田辺聖子『ほっこりぽくぽく上方さんぽ』(文春文庫、→3/3条)のなかで尼崎を訪れた一章があり、この町を舞台にした小説として本書が紹介されていたこと。田辺さんは自らの記憶にある尼崎の町と本書の舞台たる「尼ヶ崎」を「殺伐猥雑なる町には人間的な地熱があった」という共通認識で把握し、懐かしそうにふりかえっておられる。
さて次の出会いは、洲之内徹『絵のなかの散歩』新潮文庫→3/10条)の解説が車谷さんであったこと。
ここまで畳みかけるように車谷さんおよびその代表作『赤目四十八瀧心中未遂』と遭遇し、その果てに古本屋で比較的状態のいい文庫本を見つけ、解説が川本三郎さんと来ては買わないわけにはいかず、読まないわけにはいかなくなる。
『絵のなかの散歩』の解説「洲之内徹の狷介」のなかで車谷さんは、洲之内さんの小説に触れ、次のように書く。

ある文章が小説として成立するためには、ある仕掛けが必要である。つまり、ごくさり気なく「命懸けの嘘」が挿入されていなければならない。その嘘を吐けば、も早、後戻り出来ないというような。大袈裟に言えば、それが作家の才能だと言うてもいいだろう。
また解説の別の箇所では、「小説とは「人が人であることの謎」を書くのが本筋」だと言う。私はこの文章を読んでから『赤目四十八瀧心中未遂』を読み始めたため、この作品を読みながら「命懸けの嘘」を探し、また、「人が人であることの謎」がいかに表現されているのかを見きわめようとした。読み終えたいま、それを見つけ得たかどうかは心許ない。これかなとあたりをつけても、それを容易に言葉で表現できないもどかしさがある。
主人公は流浪の果てに阪神尼ヶ崎駅近くの木造アパートに身を寄せ、そこで毎日牛や豚や鳥の臓物を切り刻み、串刺しにする仕事を請け負う。
できあがった串を出す店のおかみ、臓物の材料を持ってくるために一日二度部屋にやってくる男、アパートに住んでいる彫物師とその愛人…。社会の底辺で生きる素性の知れない人物に取り囲まれ、彼らにつねに監視されているような不安感。
あのような舞台設定だからこそ起こりうる不条理不可解な出来事と、死と背中合わせの壮絶なエロティシズムに酔った。
この作品の物語としての牽引力の強さは並々ならぬものがある。言葉を極限まで刈り込んだような文体である反面、そのなかで表現されるのは「枯淡」ではなくむしろ「豊饒」「過剰」ともいうべき世界。動物性の脂がねっとりと付着していながら、後味は意外に悪くない。車谷さんの小説世界は癖になりそうである。

*1:ISBN:416765401

荷風は戦後昭和21年から亡くなる同34年まで13年間を市川で過ごした。その市川での荷風の足跡をたどる展示。『断腸亭日乗』原本から書簡、戸籍・質札などの資料、日用品、蝙蝠傘や買物籠・下駄など身につけていたもの、住んでいた部屋の実物大モデル、そしてそして石塚公昭さん撮影の写真に石塚さん制作の荷風人形。荷風人形が手に提げている買物籠に大根一本が入っている!!のを見つけてにんまり。
原資料に増して興味深かったのは、パネル展示されていた、市川での知人の回想譚や荷風目撃譚。またその脇には、来場者が自らの荷風目撃譚を書いてパネルに貼り付けている。それが五つほど。多くは当時は汚らしかったという印象だが、いまとなってはただ懐かしい思い出となっているとおぼしい。「荷風の記憶」はいまも市川に根づいているのである。こんな市川での「荷風の記憶」をどこかまとめてくれないものか。
初日ということもあり、川本三郎さんの講演会もあるゆえか、来場者多し。その川本さんも講演の前に会場で展示をご覧になっていた。誰も気づかず。観察していたら、前述の目撃譚パネルを熱心に読まれていた。

戦後創作意欲が衰えた荷風をただ厳しく批判するのではなく、なぜそうなったのか理由を探るというテーマでのお話。
荷風は場所・町・風景を自らの小説の支えとしている(漱石のように人間関係を支えとしていない)ことから、『墨東綺譚』において玉の井という理想的な町を舞台にしたため、それを超えうる小説の舞台をついに見いだしえなかった点、また『荷風好日』で指摘された空襲後遺症の問題などを大きな理由としてあげられた。
また終焉の地市川は戦災に遭わなかったため、荷風にとっては「隠棲の地」として理想的だったこと、市川には荷風が尊敬する太田蜀山人の古碑があり、先人の歩みをたどる嗜好のある荷風を喜ばせたことなどを指摘し、市川と荷風は相性がいいと締めくくられた。
会場は大入り満員。立見も大勢。私も立見で聴かざるを得なかった。展覧会といい、“市川の荷風”を愛する地元の人びとの熱意が感じられた。
講演後の質問コーナーでは、「川本さんは今日市川にどのようなルートで来られたのか。帰りは立石に立ち寄るのか」といった川本マニアが喜ぶような質問が飛ぶ。川本さんはこれに対し、普通に都営新宿線に乗ってきたこと、立石の「うちだ」には今日は行かないことを答える。その他の質問を聴くと、荷風マニア・川本マニアが多いことを知る。なぜ荷風ファンはこうもマニアックなのか。

山本夏彦『死ぬの大好き』(新潮社)ISBN4103413093
山本夏彦『寄せては返す波の音』(新潮社)ISBN4103413107
運のいいことに開店2周年半額セール。各350円(カバー)。写真コラムのシリーズだが、全編文庫化は『死ぬの大好き』の一冊前までで、いまや傑作選が刊行中とあれば、残りの新しい部分は全編文庫化しないと判断。