カフカが近づく

となりのカフカ

このところ池内紀さんがつづけざまにカフカに関する本を上梓されている。池内紀の仕事場3 カフカを読む』みすず書房)、カフカの書き方』*1(新潮社)、カフカの生涯』新書館)、『となりのカフカ*2光文社新書)、以上4冊。
このうちみすずの本は著作集であり、主として旧著カフカのかなたへ』*3講談社学術文庫)の再録だから、純粋な新著は3冊である。私は『カフカの生涯』のみ未購入で、今回ようやく『となりのカフカ』を読み終えた。本格的な評伝は『カフカの生涯』にまとめられており、本書はその初級クラス・入門編と位置づけられている。
池内さんは語学学習になぞらえ、実は初級クラスを教えることがもっとも難しいと「はじめに」で述べている。そして「初級のなかにこそ言語の骨組みや特徴が、そっくりつまっているから」、このクラスで学ぶことこそ本質的な事柄なのであるとする。
実際本書は「初級クラス」と銘打たれてはいるものの、これまで知らなかった(少なくとも私は)カフカの家族関係、人物像、小説への取り組み、恋愛の話が満載で、目から鱗が何枚も落ちた。カフカとはこんな人だったのか、という新鮮な驚き。

カフカの生涯』(2004年7月・新書館)は、ひと月早く世に出た。やはりぶ厚い本になり、誰もが尻ごみしそうである。もし『となりのカフカ』を読んで、もっと知りたく思われたら、『カフカの生涯』に入ってほしい。『となりのカフカ』に、ときおりサインが入れてあって、大きなカフカとつながるようになっている。(「あとがき」)
買おうかどうか迷っていた『カフカの生涯』だが、本書を読んで買う決心がついた。池内さんが本書にそっと忍びこませた「サイン」をたどるという愉しい読み方もできそうだ。
繰り返すが本書を読んで、カフカという作家への認識があらたまった。半官半民の労働者傷害保険協会に朝早く遅刻気味に出勤する勤勉なサラリーマン。勤務時間は朝八時から午後二時まで。そのあとの時間は執筆作業に励む。書記見習いとして就職したが、すぐ正規の書記官となり、係長・課長・部長ととんとん拍子に出世した。書類作成に長けた有能な官吏だったらしい。
現場で事故があり保険金申請の書類がくる。疑問があると現地に出張し調査する。カフカの担当はボヘミア地方でももっとも工業化が進んでいた北ボヘミア地区で、保険金授受と密接に絡む事故を惹き起こしやすい工業機械についての論文を書いたりもした。そもそもカフカは自転車・オートバイも好きな「機械オタク」でもあったらしいのである。
ここでひとつ面白いエピソードが紹介されている。カフカが親戚のなかでもとりわけ親しみを寄せていた母方の叔父もバイク好きで、彼が持っていたバイクの製品名が「オドラデク号」と呼ばれていたという話。「オドラデク」といえば、小品「父の気がかり」(「家父の気がかり」)に登場する糸車のようなかたちをした変な生き物のことである。澁澤龍彦の『思考の紋章学』を読んで印象に焼きついた「オドラデク」という名前であるが、これがカフカの創作ではなく、実在のバイクの名前だったとは知らなかった。
さて、カフカは「機械オタク」だけでない。「健康オタク」でもあった。休暇をとれば郊外の保養所(池内さんは「健康ランド」とも言い換える)に行き、ゆっくりと羽根を伸ばした。健康的なメニューの食事をとり、リラクゼーションのための散歩や運動をこなす。またそこで出会った女性と恋に落ちることもあった。
恋に落ちたカフカは、相手の女性にラブレターをせっせと書き送りつづける。「手紙オタク」でもあった。池内さんはカフカを「手紙ストーカー」と呼んで、その驚くべき手紙オタクぶりを紹介している(第6章)。毎日書くだけでなく、一日に何度も書く。返事が来ないと「なぜ返事を書いてくれないのか」と詰問の手紙を書く。これだけ言い寄られると、女性のほうも引いてしまうのではないかと思うのだが、その相手とは無事に婚約までたどりついた。しかしカフカは一年後にその婚約を破棄する。さらに数年後同じ相手と再び婚約し、また破棄。恋愛が成就するまでに情熱をそそぎ、それが結実しそうになるとその熱が醒めてしまってひょいと身をかわす。そんなカフカの心情が、男として何となくわからないでもない。
まだまだ“知られざるカフカ”の話は多く、初級編としては大成功の本ではあるまいか。池内さんのカフカの本がもっと読みたくなる。もちろんカフカの作品も読みたくなる。
ところで『変身』『審判』『城』といった不思議な小説を書いたカフカは決して天才肌の人間ではなかった。
ただカフカの場合、その人となりにまつわって天才的なところは少しもなかった。多少とも気弱で、言動ともにつつましい。きちんと勤めに出て、小官吏の職務を実直に果たしている。友人の尽力で出版の話がもち上がっても、当人がいつも尻込みした。(171頁)
となりをふと見やると、実直なサラリーマン・カフカが微笑みながら立っているような気がする。