『ひらがな日本美術史2』 橋本治 3/3

狩野正信筆「山水図」

 現代の我々には、もう狩野派の絵がピンとこない。現代の我々は、「中国の山の中にいる浮世離れのした中国人の姿」を、人間のあり方の理想だとは思わないから、ここに確固として存在する″主題の明確さ″が理解出来ないのであるが、しかし、それだって「あまりにも理屈に冒された見方」ではある。……
 現代の我々だって、″自分に必要な理屈″を求めている。だからこそ、「狩野派の絵はピンとこない」と言う。つまり、そういう我々だって、狩野派の絵の上に″違う理屈″を見ようとしているのである。(207)

狩野元信筆「四季花鳥図」

″おおよそのこと″は、もうパターン認識によって分かっている。″おおよそのこと″が描かれていれば、もう絵というものは七分通り完成していて、その後は「どれだけ詳しいか」になるのである。……
 日本人は、もうあらかたを知っている。 そういう日本人にとって必要なのは、″その先の詳しさ″なのである。日本の文化はそのように発展して来た、私はそのように思う。その「あらかたを知っている」という"アバウトさ″こそが、日本人の身上なのである。なにをもって″日本的"というのかがよく分からないまま、日本人は″日本的″という言葉を平気で使うが、「大体のことはもう分かっている」という安心感こそが、日本人に共通する最大の認識で、その共通認識の存在こそが、″日本的″を成り立たせる基盤なのである。
 そのような描き方を持っているから、そのようにしか描けない――日本人はその″限界″のなかですべてを了解してきた。私は、≪四季花鳥図≫という″とても詳しい絵″を見てそう思う。(217-218)

洛中洛外図屏風

 中国由来の漢画系の狩野派には、「日本の町を歩く日本人の姿の描き方」を学ぶ機会がない。それは土佐派にしかないのだから、土佐派の絵を取り入れて、やっと狩野派は″現在の日本″を描くことができた。洛中洛外図屏風を描く画家が″狩野派″になるのは当然であろう。
 土佐派は狩野派に吸収された。しかしそうなっても、土佐派は土佐派として存在する――衰えたまま。それはほとんど、武士の時代に存在する京都のあり方である。
 日本の中心は、もう京都にはない。しかし京都は、相変わらず″京の都″のままなのだ。中世は終わって近世が来る。近世の初め、人々は″豪華な京都″を描く絵――洛中洛外図屏風を見ていた。それはつまり、夢見ていたということなのである。(231)