言語と思考の射程について

 先日、ある人が「人間は言語によらないと思考することはできない」と言ったが、そうだろうか?と疑問を感じた。
 そもそも、言語や思考という単語が指すものはなんなのか。そこからはっきりさせたい。以下、私なりにこれらの単語の範囲を画定させてみようと思う。

 まず言語。言語は他者(自分でもいい)に何かを伝達するために発せられるもの。絵画やジェスチャーを言語に含むかは議論のあるところだと思うが、私は含めて考えるべきだと思う。また、後期ウィトゲンシュタインの言葉を借りれば「言語の意味は使用によって決まる」ということで、世界にもともと一定の概念が存在し、それを人間が使うという訳ではないと考える。

 では思考はどうだろうか。「私は今、思考と言語の関係について思考している」このような思考は言語に依ると言えるかもしれない。だが、本当にそうだろうか?私にはこの思考が既存の言語を組み合わせることで文章を作るようなやり方で行われているようには、どうしても思えない。思考には言語に乗らない部分があるのではないだろうか。というよりむしろ、思考を切り取ったものが言語になるとでも言ったほうが正しくはないだろうか。赤い林檎を見て「赤いな」と思考した時、言語以前の感覚的な理解(クオリア)がまずありきではないだろうか。

 人間は言語によらないと思考できないという考え方は、言語的な理解の習慣があまりに身につき過ぎた結果、言語と思考の区別がつかなくなって起こることではないかと思う。私も実際、思考は全部言語に出来ると考えていた時期もあったが、どうもそうではない「純粋経験」等と呼ばれるものを、言語に載せようとするとこぼれ落ちる物があると考えるようになった。
 では、言語に乗らない思考とはどのようなものか。それは言い表しようがない。なぜならばそれは言語に乗らないから。
 ということは、思考とはクオリア、或いは<>のことではないのか。これが結論だ。よって、言語の展開される「みなし世界」の中において思考について云々することはそもそもナンセンスであり、同じ水準で語るものではないのだ。