疲れた
首の痛みはある程度引いた。
「村上かつら短編集」より
(略)「父伝説」という作品が掲載されたときも、父親に、「お前はお父さんのことをこんな風に思っていたのか。」と、あからさまにいやな顔をされてびっくりしたな。なぜ、みんな漫画の中に出てくる役回りを自分だと思うのだろう。いやほんと、たまに、「いくらなんでもそりゃ自意識過剰だ――。」とツッコミたくなるくらいの勘違いをぶつけられる時がある。そしてそんなことに振り回される自分もまた自意識過剰なのだとも思う。(略)
願わくば、なんてそんなことは無理だけれども、知人が自分を見出してしまうようなことはありませんように、と最近思うようになった。全てに対して同じ距離から放たれる文章は誰あろう、僕からはゼロ距離である自分自身に向けて書かれているのだから。揶揄のような含意をこめて文章を書くとき、少なくともこれを読む僕の知りあいが嫌な思いをしませんようにと思いながら書く。そしてそういう場合、それは自戒を意図しているはずなのに、それでもそういう誤解は永遠に消え去ってくれないようだ。しかしまた、この文章を綴ることが「自分もまた」そうであるということの証明なのだと思う。
自己顕示欲の強い人の集まりである場所で、この問題は避けえないのだろうか。
雨に濡れつつ定期券購入
電車内がものすごく湿気ていて、人間の汗の匂いと車内に染み付いた埃っぽい匂いと混じりあってとても不快指数が高かった。そんな中定期券を買うためだけに出かけた自分もめでたいが、今日行かないと、明日は(はした金なのかもしれないが)200円とちょっとを無駄に使わなくてはいけなくなるので仕方なかった。定期を買ってすぐ帰るのも何だか嫌だったので、本屋でレイモンド・チャンドラー「さらば愛しき女よ」を購入。やべ、金が900円くらいしかない。
定期券を買わないといけない
ものすごく面倒臭い。
ようやく
レイモンド・チャンドラー「長いお別れ」を読了。面白かった。
なんつーかねー
「自分に都合のいいところしか見てないよねこいつらギャハハ」って笑っている当人がまさに「自分の都合のいいところしか見ていない」というのはどうなのか。論理的な論駁もせず、ただ冷笑を重ねていくだけの態度というのは見ていて憐れになるというか……。「意識」だけに突き動かされて科学性を失っているからなのだろうけど、なんだかなぁ。
相変わらず
首が痛い。