107.荀子 現代語訳 君道第十二 三章

三章

 人の君主たるべきことについて教えてください。
 礼に基づき、分別をして接して、その接し方も均等にあまねくするようにして偏ってはならない。
 では、人の臣下たるべきことについて教えてください。
 礼に基づき、君主に仕えて、真心と君主の善に同ずるようにして、怠らないようにする。

 人の父たるべきことについて教えてください。
 寛大と慈恵で臨んで、礼があるようにする。
 では、人の子たるべきことについて教えてください。
 敬いと愛で接して、適度な飾りを施すようにする。

 人の兄たるべきことについて教えてください。
 慈みによって愛して、友としての付き合うようにする。
 では、人の弟たるべきことについて教えてください。
 敬って屈しながらも、道理から外れることがないようにする。

 人の夫たるべきことについて教えてください。
 適度な和が保たれるようにして、心を全て奪われるようなことなく弁えがあるようにする。
 では、人の妻たるべきことについて教えてください。
 夫に礼があるのならば柔らかくそれに同じて聴き従うようにし、礼がないのならば恐れおののいて自分の身を慎むようにする。

 これらの道は、どちらかに偏り立てば乱れることとなり、両方が共立すれば治まることとなる。これはよくよく考えるべきことである。

 では、どちらの道も兼ねてうまく行うためにはどうしたらよいのでしょうか。
 礼について詳しく審議することだ。昔の先王は、礼について詳しく審議するこして、天下にあまねくこれを立て、そうして動けば道理に当たらないということはなかったのである。

 だから君子が、、恭しくはあるのだけどびくびくすることはなく、敬いを持つのだけど恐れおののくということはなく、貧窮であっても特に我慢するということがなく、富貴であっても驕ることがなく、変化が速いことに当たってもこれに応じて行き詰ることがないのは、礼について詳しく審議しているからである。

 故に、君子は、礼についてはこれを大事にしてこれに安んじて、事に当たれば要点を抑えて失敗することもなく、人と接するには怨み少なくて寛大にしておもねりへりくだるようなことがなく、自分の身を省みるのには謹慎して修正することを心がけて危険に陥ることがなく、その変化に応ずることは素早く効率的で戸惑うようなことなく、天地万物に対しては、どうしてそのようなことになったのかということを説くことはそこそこにして、この天地万物の財たる物を利用することを極め、役人や技芸の人とは、能力を競い合うことなく、むしろその人達の功績がうまく世の中で反映されるようにし、上の人に侍るときは真心と善に同ずる心で怠ることがなく、下の人を使うときは公平に均等にして偏るということがなく、交友については義を拠り所として誰でも共感できるものであり、郷里にいるときでも寛容で乱れることがない。

 こういったわけであるから、行き詰っている時でも必ず名声があって、通達すれば必ず功績がある。仁の厚いことは天下を兼ね覆って憂えることなく、明達することは天地にあまねくして千変万化にもよく通じ迷ういためらうということはない。血気は和平、志意は広大で、義行は天の間を全て満たすのに十分であり、人智の極みとして何の差支えもない。これこそを聖人と言うのは、この人が礼を詳しく審議しているからである。


まとめ
http://d.hatena.ne.jp/keigossa/20130104/1357283885


解説及び感想

易経・家人の卦にはこのようにある。「父は父たり、子は子たり、兄は兄たり、弟は弟たり、夫は夫たり、妻は妻たり、而して家道正し。家を正しくして天下治まる」▼その役目に徹するということは、思っているよりも難しいことである。そして、その役目に徹するということこそ、礼に従うということなのである。例えば、社長が社長たる役目を忘れてマカオのカジノに行けば、そこで借金をこさえてスキャンダルとなり、文字通り会社の株を下げる。保母さんが保母さんたる役目を忘れてスマフォを触ってばかり居れば、その間に園児がけがをして保護者が怒り、園児が減ることとなる。父が父たる役目を忘れて子供を甘やかせば、その子供はわがまま自己中となって、社会に悪影響を及ぼす。このように、その役目たる人がその役目に徹することができなければ、ものごとは立ちどころにして滞ることとなり、ものごとが滞ることになれば乱れることとなり、乱れれば社会に混乱が生じて衰退が訪れるのである。こういったわけであるから、礼を審議して、その人がその人たるべきことに徹するならば、滞りが生じなくなってものごとが潤滑に進み、ものごとが潤滑に進めば治まることとなり、治まれば余裕ができて全てが繁栄することとなるのである。しかし、全てが繁栄することが難しいのは、その根本たる、その人がその人たるべきこと、つまり礼を詳しく審議することが難しいからなのである。故に、これができれば、聖人として何ら差支えがないのである。