10月歌舞伎座昼、成田屋の『対面』

kenboutei2006-10-14

途中で用事があったので、「葛の葉」と「対面」だけ観る。
『葛の葉』国立の鑑賞教室のような配役。魁春は、派手なスター性はないものの、どこかメルヘンチックなところがあるので、この「葛の葉」はさぞ面白いのではないかと思ったが、残念ながらつまらなかった。
最初に上手障子窓をさっと開けて顔を見せるところ、「狐の女房」の雰囲気があるなと思う間もなく、すぐに閉めてしまう。本物の葛の葉への早替わりのために焦っていたのかもしれないが、ここでもう少し顔をじっくり見せる余裕がほしい。その辺りがスター性のないところでもある。
「恨み葛の葉」の曲書きは、下手過ぎて興をそぐ。福助以下。小学校の教室の後ろに貼られている習字の中にありそうな文字だった。
面明かりでの引っ込みも、床の三味線の貧弱さと相俟って、極めて寂しい。無人歌舞伎座が更に寒くなったように感じた。
『対面』初めのうちは、復帰後の團十郎の堅固な姿にホッとし、花道から登場した菊之助海老蔵の美しさに陶酔し、歌舞伎はやっぱり絵だなあ、などと一人悦に入っていたのだが、途中、海老蔵の五郎が、團十郎の工藤からの酒を受け取ろうとにじり寄るところで、このいかにも典型的な歌舞伎の祝祭的空間である「曽我もの」の雰囲気が、一変した。
海老蔵の五郎は、ぐっと低く股を割り、じりじりと三方に近寄る。その鬼気迫る姿が尋常ではない。それをやや反り身の形で見下ろす團十郎、心配気に見守る菊之助の十郎と、緊張感溢れる三者は、さながら「勧進帳」の弁慶、富樫、義経の、勧進帳読み上げ場面を彷彿させる。
これは決して大げさではなく、ぞくぞくするようなスリルがあり、「曽我もの」が本来、親の仇討ちがテーマであることを、改めて認識させるものであった。当初思っていた、正月でもないのに曽我ものなんて、という感覚もここでは吹っ飛び、実にリアルな復讐のドラマが、目の前に再現されたことに驚いたのである。
海老蔵は、この芝居を、決して荒事の歌舞伎の型や様式美だけで捉えているのではなく、こうした曽我兄弟のドラマをしっかり解釈して、臨んでいたのであった。ところどころ、それを顔の表情で表現しすぎる面もあるが、かえって稚気溢れる様にもなっていて、この五郎は実に傑作、無類のものである。
他にも、五郎の名乗りで、荒事の約束として、右手を振りながら、かっ、かっ、かっ、かっ、かーっと息をつぐところで、最後の「かーっ」は、鼻にかけてイビキのようになり、いつも場内から失笑が漏れるのだが、このイビキ(他に表現が思いつかない)を海老蔵は、あえて長く延ばすことで、単なるイビキにならないようにしていた。それでも失笑はあったが、これも海老蔵なりの工夫とみた。(そもそもあのイビキは、團十郎の悪癖だと思う。)
それはともかく、荒事としての稚気、荒ぶる魂の気迫、形・型の良さ、そしてそれに矛盾するようなリアルさが、渾然となって、一人の曽我五郎時致という若者になっていた。歌舞伎十八番ものの海老蔵は、「暫」にせよ「助六」にせよ、既に定評のあるところであるが、この「対面」(そう、まさに対面劇なのだ)の五郎は、特筆すべき海老蔵の持ち役になったと思う。
田之助の大磯の虎、最近老け役が多かったので嬉しい。
今月は、満員の国立劇場に対して、いつになく空席が目立つ歌舞伎座だが、このひと幕だけは、スカスカの空間でも充実した気分が漲っていた。三宅坂の4時間より、木挽町のこの1時間の方が断然面白い。
次の「熊谷」を観ないで帰るのも、別に気にならなくなっていた。