ニュースの弁説

  ニュースで今年を振り返り特集をやっている。小泉劇場。振り返ってみれば、演説映像なんかを見ると、自民党の圧勝もむべなるかなと思った。大将が、旗を振り、時にお涙頂戴、時にトキの声をあげる。見事なまでの演出効果だと思う。


  おっと、今度は宇宙飛行士の野口さんだ。宇宙ラーメンを食べている。小さな扱いだなあ。


  政治経済が安定している時代には、政治や経済が大きく語られることは少ない。中心となるのは、文化であり新技術の話題だ。それだけ不安定な時代なのだな、とニヒルに思ってしまった。こういうモノイイは、傍観者的後付結果論者の弁説である。

 amazonの後頭部

  ようやく仕事納め。今日は、なんだか疲れた。流れ解散だったので、会社を飛び出して、大手町の丸善に立ち寄った。甥っ子、姪っ子へのお年玉ということで、絵本を買おうとも思っていたのだけど、思考能力が低下していて、良さそうな本がわからず断念した。
  自分用に、年末年始に読もうと思った本を会社でリストアップしておいたので、それをトコトコと買い込む。こういうときに、売り場検索が可能である丸善は便利だ(書名を機械に入力すると、場所と場所の番号記号が表示され、印刷することも可能)。amazonとかではなく、現場に来ると他にも魅力的な本が泉のように湧き出る、という理想系からは、丸善の暖房が暑苦しくてたまらなく、amazonを現場に移設しただけのような空間設定をなんとかして欲しいといつものように思った。
  でも、一応現場ということで、貰ったピアノを練習するための楽譜を買おうと閃いたのは、さすが現場。一冊購入した。これで、イマジンや空も飛べるはず(?)、大きなフル時計を弾けるようになることを期待。
  不思議に思ったこと。レジカウンターに年末だけあって、人が大量に並んでいたのを見て、活字文化の衰退の真偽を疑ったあとに、居並ぶ人々すべてが、当たり前ながら、小脇に買うべき本を抱えているのに、誰一人として読みながら時間を待つことをしていないということ。全員が、呆然と中空に目を泳がせているというのは、比喩的表現で、実際には前の人の後頭部から頂頭部にかけてを漫然と見ている。活字文化の衰退ウンヌンよりも怖いと思った。


  帰りに中華料理屋で飯を食う。隣のテーブルに母親と二人の男の子が席についていたけど、今晩くらいに単身赴任のお父さんと合流するのかな、ああ年の瀬だと思った。

 間が悪い自分にGJの反対

  非常に気がふさいで、調子が悪かったのだけど、そういうときはタイミングも全く悪い。誰かと会いたいなあ、と寂しく思っていたけど、だれもいないよなあ、と思い眠っていたら、友達からメールが来ていて、これからメシでもドウ?しかし、寒気があり、夜になって寒く、これはいかんよ、と思って断った。メール着信時は、ちょうど気がふさいで眠りについた頃合いだった。まったく間が悪い自分だ。

  と、調子が悪かったのだけど、http://keroyan.exblog.jp/を更新したら、元気が出てきた。文章を綴るという行為が、性に合っているみたいだ。

 テキスト文明

  今年は2005年。***5年には、エポックメイキングなことが起こるとよく言われる。1985年は、阪神優勝THE BLUE HEARTS結成以外にも、たしかなんかあったし、1995年は、windows95の発売→パソコンの普及があった。そして2005年。キーワードは、たくさんある。同時代性だから故のキーワードなのかもしれないが、自由民主党の歴史的圧勝、マンション偽造事件による政局の狼煙、個人的には、なによりもブログの普及に伴うテキスト文化の復権
  日本人は、つくづく議論が好きな国民性を有していると思った。ブログでブログというツールの在り様を語る、というメタ文化まで、一足飛びにやってきた。ホームページ時代にホームページ語りが、かくも多く存在したのだろうか?あるいは、マンションブログに代表される、オープンソース・ジャーナリズムの勃興。ところで、「きっこの日記」のきっこって、*谷**じゃないのかね?
  ブログからブログへのリンク(環)は、無限だ。エントリにコメントをつける→賛同、反論が数限りなく発生する。

  テレビすら見ない若者がいるということが謳われる。テレビ→ネット(テキスト文化)への移行。好意的に謳われるのではなく、批判的な論調が多い。なぜか?ネット社会という閉鎖空間だからだ。テレビは、同時的に複数人で共有するメディアであるから優れている。ネットは、自分独りでみるもの。後者は、そのとおりだ。集団で同じ画面を眺めているテンキョウはなかろう。非常に分りやすい批判材料だ。しかし、「善の研究」を同時的多数で読むことはないだろ?という原初的な書物の置き方が難しい。
  ちょっとヒネる批判だと、多分、ネットの情報は本当に正しいのか、というか議論そのものの方向性が正しいのであろうか?という見方もあろう。なにしろ、独りで眺めるモニターで議論する。ナンジャコリャ?な世界であろう。これも的を射た批判だと思う。

  で、なにが言いたいかというと、批判はあれど、みんな文字文化が好きなんじゃね?ってこと。映像なんてかったるいじゃん!それが顕現されたのが2005年なのじゃないかな、って思う。ブログ=ちょっと知的な雰囲気の読み物、という捉え方をボンヤリ考えていたこともあるけど、実際は、映像ってかったるいな、ってことなんじゃないかなっていうプリミティブなところに真理があるのでは。

  機会があったら整理したい。

p.s.
1985年は、プラザ合意だ。はてなキーワードはとても便利だね。1945年、1955年、1965年、1975年、、、、うむ、たしかにエポックだ。