海外移住計画

GDPの議論から、生活の質の議論に。

休学とGDPとGNH

最近、大学に居る時よりも勉強をしているように錯覚しています。実際は大学での授業時間を鑑みれば大学に通っているときのほうが勉強している時間は多いのですが。。。


そんな僕は今年度は休学していて、来年度も休学する予定です。


ところで、大学に居るときの2年までの僕は単位だけ取れればそれでよいとしてたりしました。たぶん、僕のように考えた大学生は少なくないと思います。


単位が取れるだけの基準をただ満たすだけでよかったです。
なので、ただ基準を満たすためにコネクションとネットワークを駆使して情報を集め、ただ基準を満たすためだけの準備しかしませんでした。


なので、質の追求はあまりしなかったように思います。
しかし、大学3年に入って、さてこのままでよいだろうか。


そんなことを考えてしまったのですよね。。
ただ基準を満たすだけの試験を受けている、と思っていたのでそのテストをするのは情報網を駆使して集めた情報を利用してクリアできるかどうかのゲームみたいなもので楽しかったりしたのですが、あくまで個人的にはただ基準を満たすためのことだったので質は追求しませんでした。


しかし、質の追求は明らかに必要だろう。と思ったりしました。必要な理由は、個人がそれを追求したいという欲求が前提ですが僕にはそれを追求する必要な理由があり、それは、たぶん質を追求しといたほうが後で役立つんじゃね?と思ったのが理由です。で、おそらく追求する余裕があるとしたら休学したときだろうと思ってました。それに気付いたときには大学2年を過ぎる頃だったので。


ところで、はじめに「最近、大学に居る時よりも勉強をしているように錯覚しています。」と書きましたが、これは休学してるときのほうが勉強していると思えてしまったからに違いありません。


ですが明らかに、休学した後の僕は休学する前の僕よりも休学をせずに時間的な経過によって得られたこと以上のことを知っているしできるようになっていたりします。


ところで、いきなりですが僕の上記経験を無理矢理経済学で使う経済活動の評価尺度に絡めてみようと思います。


日本や他の多くの国々ではGDP(国内総生産)で経済活動を測ってきました。ですが、GDPで考慮されないことに注目が集まり、生活の質をどうやって測ろうかということに関心が集まってきている昨今です。


GDPは増えてるも、豊かになったと感じる人が大きく増えてなかったりするみたいですが、たとえば、一人当たりの所得が増えたでしょう、なのになぜ?と思うわけです。


一人当たりの平均所得が増えても、それは平均なので高所得の人に引っ張られて平均が上がったとすれば実感が沸かないのは不思議ではないわけです。


で、中央値でみてみるとはっきりとわかったりします。
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa08/2-2.html

中央値のほうが庶民の生活水準に近かったりします。
平成22年の平成22年国民生活基礎調査の概況を見てみると、
http://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa10/2-2.html
平成20年調査にあった一番下の中央値の数値比較の図がなくなってたりしますが、平成22年調査のほうでも「中央値(所得を低いものから高いものへと順に並べて2等分する境界値)は 438万円であり、平均所得金額(549万6千円)以下の割合は 61.4%」ということになっていたりします。


なので国民の6割は平均所得以下の人たちというのが今日の日本だったりします。


中央値と平均所得の差、約100万円が多いか少ないかどちらでもないかは他国と比較してみないとわからないのでここではいいません。が、中央値は平成21年まで下がり続けてきた427万円から平成22年になって約10万円上がっただけです。


で、これをみるとやっぱり所得が上がってないんじゃないのかと思うのも不思議ではないんですよね。(所得は何かをするための手段なのでその分生活の質もあがってないのではないかと思うのも不思議ではないかなーと)


で、僕の単位を取れればそれでいい、つまり、ただ基準を満たせばそれでよかったものがどうもそれだけでは駄目だ。ということが後になってわかってしまったように、GDPをただ成長させればよいというだけでは見落とすことがあるので、それを補うアプローチと枠組みが必要になってしまっている。


なので、日本もGDPのよさを残しつつ休学したほうがいいんじゃないの。ということになってくるわけです。(どういうこと)


んで、昨年は、ブータン国王が来日して国会で演説していきましたが、ブータンではGNH(国民総幸福量)が一国の評価尺度になってたりします。


で、日本でもGNHでやってみようかーみたいなことが話し合われていたりします。


GDPで補えなかったものがGNHで補えるようになるかもしれないのでそれはそれで良いでしょう。


が、僕はGNHが幸福を絶対的に追求するものだとするものだとしたら、その尺度を用いるのによく考えないといけないと間違えることになると思ってます。


どのような間違いを生むのか、それは、『正義のアイディア』でアマルティア・センがいうように長い間貧困の状態に置かれた人々や希望を持てないほどの逆境にいるある人は自分自身が望むこと、期待することを「実行可能なわずかばかりのものに合わせてしまう傾向がある」。また、彼らが小さな変化に喜びを見出すようになり「彼らの貧困を特徴付けている現実の差別を実際に取り除くこともなく彼らの精神的苦痛を下げ」ることになってしまう。


つまり、慢性的に貧困状態にある人々のことを過小評価してしまう。彼らの小さな変化に喜びを見出す能力によって不正義を見逃すように幸福尺度では正しい判断ができないなら、それは間違いに繋がる。ということだったりします。


地震、津波、原発事故などなどいろいろ起きたわけで日本にもセンのエンタイトルメントを欠いた状態はあるかもしれない。


エンタイトルメントを欠いた人々に正しいことが政府によってなされるように僕らは理性的な公共的議論をこれからも続けていかなければならないわけです。そしてプロセスにも注目していかねばならない。


僕は割りとツイッターを使いますが、ツイッターは議論には向きませんが拡張的な公共性はあるので議論のために別のプラットフォームが必要だとは思ったりしてます。僕みたいに外に出て行かない人用にですね。。


というわけで、テストでただ基準を満たせばいいと思うことから休学をして質の追及へ移る話とGDPからGNHへ移る話(移ると決まったという意味ではなく)はなんか似てるかもと思ったりしたわけです。