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お筝

(音楽)
おこと

「お琴」と書かれることが多い。厳密には、琴はキンで「柱」(じ)のないコト、「琴瑟相和し」の中国故事になった楽器。筝はソウで「柱」があり、日本はこの形で、一絃、二絃、七絃、十三絃、十七絃(宮城道雄考案)、二十絃など、あります。普通の古典曲は、十三絃が主です。
お筝の形状は「龍」に喩えられ、奏者から見て右の脚と飾りのある方が「龍頭」、左の糸が余って巻いてあるほうは「龍尾」と呼ばれています。
◆古筝
最近、中国古筝の演奏が盛んになってきているが、中国古筝は、2200年ほど前の春秋戦国時代に生まれたと言われていて、撥弦楽器で、秦国に広く流行し、「秦筝」と呼ばれていた。最初の頃は十絃で、宋代以降は十三絃、明、清以後は十五〜六絃となり、ほんの30年ほど前、現在のように二十一絃になったそうで、柱がある。
◆和琴(わごん)
東京都杉並区にある大宮八幡宮で、巫女さんの「和琴」が奏でられたことがあるが、それは柱のある六絃で、琵琶の演奏のように、絃を続けて「ざらざらん、ぼろろん」とアルペジオ(分散和音)ふうに掻き鳴らすものであった。 (右手の道具はツメであったか、ピックのようなものであったかは、忘れました。)
また、国立能楽堂の展示室で、「平家物語」に因んだ展示があり、楽器では、経正(平経正 つねまさ)の琵琶、敦盛の高麗笛(こまぶえ)、そして小督(こごう)の和琴…大宮八幡宮の和琴と同じ形、があった。
◆雅楽の筝との関係
小督が奏でたのは、太い緒に糸を結び付けて張った、六絃の和琴で、平家物語中の曲は「想夫恋」である。
想夫恋(想夫憐。 相府蓮=本来の原典の字)は雅楽の曲で、雅楽では和琴と十三絃の楽筝(がくそう)とが曲により使い分けられている。お筝は雅楽の筝の影響を受けているといわれているが、中世・室町時代の詳しいことはわかっていない。
◆知られているお筝の歴史
安土桃山時代に久留米の僧・賢順により、中国や、在来の独奏筝曲、雅楽の筝曲をまとめた「筑紫筝(つくしごと)」(十三絃)が起こった。その孫弟子に八橋検校(やつはしけんぎょう)が現れ、源氏物語にもある「律」音階から、その頃流行していた「都節」音階(平調子、雲井調子)に調弦を変えて作曲し、貴族や僧侶以外の人々にも受け入れられる筝曲を多く残した。三味線の地唄との合奏も盛んになり、現代につながる基を築いた。後に、その弟子筋から京で元禄8年(1695年)生田検校が生田流を起こし、また山田検校が江戸で山田流を立てた。「組歌」は王朝ものが多く、和歌を基調としている。また、能を主題とする曲も多い。
◆江戸期の筝曲・地歌(地唄)に関する組織
筝曲・地歌の師範は、「当道」という盲人の検校を頂点とする別当・勾当・座頭の身分制度で組織され、長唄三味線のように一般人の師匠というものが許されなかった。故にお筝は、職業としないアマチュアの趣味の稽古事として上流階級に浸透した。
明治4年(1871年)に当道制度は廃止され特権も失われたが、筝曲演奏家は独自に組織を続け、弟子制度も検校の名称もしばらく続いた。宮城道雄は1916年(大正5年)、22歳の時大検校になった。

◆参考
能 「小督」 (こごう) (出典・平家物語) あら筋
高倉院の寵愛を受けた小督局は琴の名手で、中宮徳子の父である時の権力者清盛から睨まれ、嵯峨の辺りに姿を消す。“お嘆き”の院の命により勅使が遣わされ、源仲国が御寮の御馬に乗って嵯峨野探索に。折からの中秋の名月、きっと小督は琴を弾くであろうと、その音を頼りに耳を澄まし澄まし探し歩くと、はたして『峯の嵐か松風か 尋ぬる人の琴音か』想夫恋(そうふれん)の琴の調べが聴こえてきたのであった…。 (表記は「琴」)

●上記の 能「小督」 の有名な「駒之段」は、「黒田節」に歌われ、筝曲にもなっている。 メロディーは現代の黒田節と同じで、雅楽の越天樂の節に替え歌をつけて歌う『筑前今様』が元。
        筝曲「黒田節」 歌   …  峰の嵐か 松風か 訪ぬる人の 琴の音か
                          駒ひきとめて 聞くほどに 爪音(つまおと)頻き(しるき)想夫恋



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