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メッテルニヒ

(読書)
めってるにひ

Klemens Wenzel Nepomuk Lothar Fürst von Metternich(1773年〜1859年)
神聖ローマ帝国/オーストリアの政治家・外交官。


生まれはコブレンツ。カウニッツの孫娘と結婚、ハプスブルク家に仕え、外交官としてのキャリアを積み上げていく。
1809年にはオーストリアの外相に就任、ナポレオンに何度目かの*1敗戦を喫した後のオーストリアの外交を支えていくことになる。
まずはマリー・ルイーズとナポレオンの結婚によって自国の安泰を図る。ロシア遠征の失敗後の諸国民戦争においては、当初は中立を保ちつつ最終的には反仏側として参戦している。
ナポレオン没落後はウィーン会議を主宰する。革命後の混乱したヨーロッパ情勢を安定させるべく、正統主義的な原則に基づく戦後処理を実現。(革命への恐怖から来る)反動的な政策で列強をまとめるウィーン体制の最大の擁護者となる。ためにウィーン体制は別名メッテルニヒ体制とも呼ばれる。
1821年には宰相に就任、世界各地での民族主義的な動きを抑えるべく尽力する。結果として反動復古主義者の首魁と見なされるようになり(いや事実その通りではあったが)、1848年の三月革命で失脚・イギリスに亡命。のち、1851年に帰国するが政界には復帰せず*2


在任中は概ね「反動的」な政策に終始して、とりあえず変革には反対する態度でいたように見える*3ため、後世からはあまり高く評価されていない。また、外交官として活躍した際の手管などからも、嘘つきで信用ならぬ外交官の悪い意味での典型と見なされることもある。
もっとも、メッテルニヒ本人が「(フランス革命を淵源とする)国民意識の覚醒という時流によって浸食されつつあるハプスブルク帝国の社稷の臣」との自覚の下に行動していたので、まじめにその任を果たしていたのだと解釈するべきかもしれない。

*1:そして最後の

*2:皇帝への助言という形で政治的な影響力をある程度は有していたとも

*3:皇帝フランツ1世の方がずっと「反動的」だったのが原因とも言えるが

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