高等学校令(第一次は明治27年(1894年)勅令第75号、第二次は大正7年(1918年)勅令第389号)に基づいて設立されていた高等教育機関。卒業生は主に旧制大学に進学していた。第一高等学校以下、最大48校を数えたが、学制改革に伴って昭和23年(1948年)に消滅し、大多数は新制大学の教養部に移行した。
戦前の日本で教養を身につけることができたのは、旧制高校生だけだった。最も有名なのは外国語の授業で、甲類は英語、乙類はドイツ語、丙類はフランス語が第一外国語で週に10時間以上をこの言語での購読に充てられた。この授業で旧制高校生は英独仏語による文学作品やエッセイを直接読み込んだ。記録によれば英語ではエマーソン、ホーソーン、エリオットを、ドイツ語ではゲーテやシラー、レッシングを、フランス語ではデカルト、ラシーヌ、ボードレールを読んだという。読んだと言っても教授による訳読を聞いていたに近いこともあったようだが、九鬼修造の述懐のように、こうした外国語教育で沢山の本に触れて視野が広がったという感想を持った…
1973年11月、「トイレットペーパー全部売り切れました」との張り紙を出した東京都内のスーパー。第4次中東戦争を機に原油価格が急騰、いわゆるオイルショックでトイレットペーパーや洗剤などがなくなるとのうわさが広がり、消費者を買いだめに走らせた(写真・共同) 東京都知事の小池百合子氏の学歴詐称疑惑が再燃している。2020年に一度収束していた問題が再浮上したわけだ。 【この記事の他の画像を見る】 学歴によって社会の能力を測る学歴社会において、学歴詐称が悪いことは当然のことだが、学歴という問題にはつねに複雑な問題がついて回ることも確かである。 筆者は2017年、スペインで開催されたEAIE(ヨーロッパ…
教養主義の没落: 変わりゆくエリート学生文化 (中公新書 1704) 作者:竹内 洋 中央公論新社 Amazon 『教養主義の没落―変わりゆくエリート学生文化』竹内 洋著を読む。 教養は、たぶん、即効性がない。ところが、最近の教育は即効性を求める。大学がまるでビジネススクールのようになったのも、社会が学生に即戦力を求めるからだということになっている。しかし、即戦力の即は、即席の即、すなわちインスタントである。企業がかつてのように若い人材を育成する余裕がなくなってしまい、スキル的にすぐ使える人を雇いたがる。 しかし、それじゃ、企業自体が脆弱化していく。すぐに役に立たない。というよりも、すぐに役に…
気温摂氏9.5/16.3度。晴。昨年、東京国立科学博物館が冷房の電気料金すら工面難しいとクラウドファンディングに訴へ日本の貧困さに唖然としつゝ気持ち程度に寄付。想定超える寄付集まつたが返礼品の対応も難しいほどで約束のそれがやつと届いた。 礼品は長谷川和範「貝のスケッチ」のキャンバストートバッグ(34×26×10cm) 。松戸の小学5年生(この春6年か)IR君に差し上げると約束してゐたので早速お送りする。 大谷通訳疑惑で日本のメディアは「紐育タイムズの報道によれば」と盛んに報じているが同紙で電子版にはその報道あるものゝ手許にあつた紙面(NYT Int’l Edition)にはOJシンプソンと曙の…
――福間良明『司馬遼太郎の時代』(中公新書2022)を読む―― 司馬遼太郎が没してはや30年近く経つ。国民作家と呼ばれて今なお人気は衰えない。司馬文学がどのようにして生まれ、なぜ国民作家と言われるほどになったのか。その誕生と受容のあり方、そして行く末と教訓まで、時代との関わりで徹底的に追究する。私もまた司馬の歴史小説やエッセイ、特に『街道を行く』を愛読した。その魅力がどこから来ているのか。本書によって教えられ納得することが多くあった。 司馬遼太郎(福田定一・1923―1996年)は、大阪市浪速区に誕生した。実家は薬局を営んだ。大阪の下町で自営業を営んだ生育環境は、「既成組織に依拠せずとも何とか…
火曜日。 ぼちぼち仕事と取り組みつつ(PCの作業が主なので、椅子に座って行えるからまったく平気。)、野菜2品と動物性蛋白質1品の主菜副菜を揃えては、家族に提供する。連続テレビ小説『虎に翼』が2週目に入り、主人公の寅子(ともこ)さんは、高等女学校を卒業して、大学の専門部女子部に入った。ここは3年制で、修了したならば3年制の法学部に進学できるという。女子のための高等女学校に相当するのが、男子の中学校で、男子はその5年を修了して旧制高等学校に3年通い、法学部に入るので、寅子さんたちの進学する女子部は男子の旧制高校に相当する内容を教えている……と思ったら、1年からすでに専門課程の授業も行われていた。 …
目覚めると5時、ラジオは今日の放送が始まりました。 寝床で、新聞を読んだり、ラジオを聴いたり…。 「今日は何の日」で、1896・明治29年に「近代オリンピック」開催。1937・昭和12年に神風号ロンドンへ。1941・昭和16年、旧制高校ボート部が琵琶湖で遭難。 そして「大谷、2試合連続の2号ツーラン」の朗報が、飛び込みました。 アメダス、最低気温は3.3度(4:20)、「曇り、時々晴れ、所によって夜に雨」の予報です。 咲夜遅く、雨量0.5ミリ(23時)が加わりました。 晴れそうなので、洗濯を済ませました。 朝食後は、好天につられて野良回り…。 農道が市のバイパスになってから、久しぶりに、用水・…
月に4冊は図書館で借りた本を読むふあららいです。 松本市には全部で11の図書館があって、今日はここ、次はここ、と、行くごとに図書館を変えています。 昨日は中心市街地の外れにある「あがたの森図書館」へ行きました。 図書館が入る建物は旧制松本高校の校舎として建てられたもので、大正9年(1920年)に竣工、平成19年に市の重要文化財に指定されています。 100年を超える建造物だけに、つい先日耐震化工事が行われていました。メンテナンスが行き届き内部はとても綺麗です。 ノスタルジック漂う廊下。歩くとギシギシ鳴ってなんかいいです。 現在図書館の他、市のコミュニティセンターとして活用されていて、一部の部屋は…
東京都中野区議会が2024年3月、田代雅規・中野区立中野中学校校長を区の教育長に任命する人事に同意した。現役校長がダイレクトに中野区教育長になるのは、新井鎮夫教育長(1979~1989年在任。陸軍中野学校卒業生)以来初。2024/3/25記(敬称略) 中野区教育長に現役校長 田代雅規プロフィール 現役校長任命は1979年以来 新井鎮夫について 陸軍中野学校卒業生 井草高校長を年度途中で退任 新井と教育委員準公選制 新井の業績 突然の辞任と須藤出穂 2024/4/11追記: 新井鎮夫と宮沢賢治と高村光太郎 中野区教育長に現役校長 2024年3月21日、区議会は、3月31日付で退任する入野貴美子教…
華厳の滝に投身自殺した一高生、藤村操の「巖頭之感」は当時(1903年)の旧制高校生や知識人に大きな衝撃を与えた、というが、具体的に影響を受けた人の言葉を読んだことがあるだろうか。 例えば当時藤村より5歳年上だが、一高では一年上の寮生(西寮六番)だった岩波茂雄(岩波書店の創業者)はこう書いている。 「その頃は憂國の志士を以て任ずる書生が『乃公出でずんば蒼生をいかんせん』といつたやうな、慷慨悲憤の時代の後をうけて人生とは何ぞや、我は何處より来りて何處へ行く、といふやうなことを問題とする内観的煩悩時代でもあつた。立身出世、功名富貴が如き言葉は男子として口にするを恥ぢ、永遠の生命をつかみ人生の根本義に…
こういった記事をしばしば見る。 toyokeizai.net たしかに秀吉は何度か人身売買を禁じる法令を発しているが、一方で唐入においては次のような指示を出してもいる。 態と申し入れ候、朝鮮人取り置かれ候うちに、縫官・手のきゝ候女、細工仕る者、進上あるべき旨御朱印なされ候、御家中をも御改め候てこれあらば、早〻御進上もっともに候、恐惶謹言、 長束大蔵大輔 十一月廿九日*1 正家(花押) 羽柴薩摩侍従殿*2 人〻御中 (島津家文書、1763号) この年は唐入が行われた前年の天正20年=文禄元年の翌年である。開戦1年後には捕虜のうち何かしら熟練した技を持つ者を秀吉に献上せよというのである。奴隷の原初…
30年ぐらい前だろうか、街の本屋さんへ行くと、ごま書房や徳間書店などから出版された金儲け指南の本が平積みになっていた。当時はそれらの著者である「邱永漢」という名前を見ても「金儲けの上手な中国人」程度の認識しか持たず、この人の文学的センス、人生哲学などに思いを及ばせることはなかった。今回この本を読み、初めて邱永漢の人となりを知る。 戦前に台湾人として生まれ、旧制高校、東京帝大といった大日本帝国のエリート教育を受けながらも日本に安住するわけでなく、飄々として台湾、香港、中国をも渡り歩き、まさに一代で大成功した実業家として一生を終わる。その間に膨大な量の著作を執筆、大部分は実用書かもしれないが、小説…
本日に野暮用から戻りましたら岩波「図書」3月号が届いておりました。 このところ郵便事情が悪いために、配達が本日になったのでありましょうね。 それにしても「ちくま」「波」「一冊の本」「図書」と購読しているのですが、 ほとんど読むこともできないうちに、次の号が届くというのがこのところであり ます。 これじゃいかんと、本日は「図書」と「波」を手にしておりました。どちらも続き ものがありまして、バックナンバーもあわせてとりだして、一気に読んでしまわな くてです。 「図書」の続きもので読んでいたのは松本礼二さんが書かれた「父の友人 たち」というものです。 松本さんが二歳になるかならぬかで亡くなった父上の…
昨日の朝日歌壇に <アルバムを見て思ふ背広など着たことのなき父の一生(大分市 野田孝夫)>、という歌が載っていた。おそらくこの方の父親はひたすら仕事着を着て働いてその姿をこどもに見せて去っていったんだろう。この歌を読んで私の父をおもい浮かべた。やはり背広は一つ革靴も一つ、冠婚葬祭用の黒服が一丁、あったと思う。高等小学校の学歴だ。私が五歳頃に家を新築した。それを祝いしてか地元の父の同級生会を父の家で行ったことがあった。そのとき「俺の父ちゃんは案外と人気があるのかな?」と思った記憶がある。貧しい家であった。ボロボロの国語辞典が一冊しかなかった。本というものは他になかった。しかし、新聞を購読していた…
最近、自分の学的な背景を回顧するのではなく、専門研究をしている延長で気が付くことがあった。もともと学者になろうと思ったのは、大学二年生の時で、その時に福原嘉一郎先生の教養ゼミに入った。これは早稲田大学のとてもいい制度だと個人的には思っている。福原先生は旧制高校の最後の世代で、その伝統を自覚的に継承していた。ゼミナールは、単に知識を得る場ではなく、まさに人格的な陶冶を生み出す場だということが、福原先生が言うまでもなく(実際には本当になにかお説教的なことはいわない人だった)自然とゼミの雰囲気になっていた。本当の教養の場だったといえる。それにはさまざまな自由な雰囲気がなければならなかった。もちろん旧…