建仁2年(1202)7月13日、俊成卿女は後鳥羽院女房として院御所に初出仕をした。 この模様について藤原定家は『明月記』に 【「歌芸によって、院よりこれを召すとあり」と記し、和歌をもって歌壇で活躍することを責務とする専門歌人とし後鳥羽院から召された事を記している】 さらにこの初出仕は全て俊成卿の夫の源通具が沙汰し、 ・通具の妹の女房高倉殿が世話をし、 ・通具の手配で予め禁色(※)を得て、俊成卿女が大変名誉のある上籠女房である処遇 を得ている。 ※禁色:規定以外の色の衣服を纏うことを特に 許された女房であることを示す: 対する御子左家は、俊成の命を受けて定家も初出仕に参上したが特にすることもなく…