〒819-0032
福岡県福岡市西区の内の南部の一角にある町、すなわち福岡県福岡市西区戸切。
古には平群(へぐり)と呼ばれていたこのあたりは、遅くとも近世にはその名が戸栗(へぐり)に転化し、やがて戸切へと更に転化した。*1
今に1丁目から3丁目までの区域で成されるこの町は、その大部分が住宅地、ところどころに田畑が広がるという様相にあり、南で羽根戸、西で野方、東で橋本といった町々に接し、ともに南の彼方に脊振の山々を見据えている。
*1:戸切公園より。
北海道はエゾヤマザクラが最も多く、道南ではソメイヨシノ、道東ではチシマザクラが見られます。 道南の桜名所 函館公園【函館市】 五稜郭公園【函館市】 松前公園【松前町】 戸切地陣屋跡【北斗市】 大野川沿い桜並木【北斗市】 法亀寺しだれ桜【北斗市】 清川千本桜【北斗市】 青葉ヶ丘公園【森町】 オニウシ公園【森町】 熊石青少年旅行村【八雲町】 さらんべ公園【八雲町】 母恋富士下サクラ並木【室蘭市】 南部陣屋跡陣屋町【室蘭市】 鷲別川沿いの桜並木【室蘭市】 市民文化公園(出光カルチャーパーク)【苫小牧市】 緑ケ丘公園【苫小牧市】 気門別川散策路【伊達市】 有珠善光寺・有珠善光寺自然公園【伊達市】 登別…
今後当ブログのタイトルに「旧町名の痕跡」と書かれていたら、表札や電力プレートなど世間一般で認知されているものとは異なるものを紹介しているのだと思っていただきたい。 既にそういう意味の「旧町名の痕跡」を紹介しているが、タイトルでは特に区別していなかった。 表札や電力プレートなど以外にも、公園名、学校名、交差点名などいろいろなところに旧町名の痕跡が残っているが、それらを旧町名として紹介するのは憚れていた。 街中には完全に消滅してしまった旧町名もあるが、公園名、学校名、交差点名などに残されている旧町名を見かけることがある この基準を作ろうと思ったのは、折角残されているのだから、その痕跡を紹介してみた…
東京国立博物館 本館 館内も見どころありです☆ 3月に入ってから寒暖差が厳しくなりました。 でもそろそろ桜の開花が楽しみですね。 東京上野の東京国立博物館では、毎年3月半ばから4月上旬ごろにかけて、 「博物館でお花見を」 という催し物があり、わたしは毎回楽しみにしています。 博物館の本館の裏手にはお庭があって、 「春の桜の咲くころ」 「秋の紅葉のころ」 の年2回だけ、 総合展(常設展)や特別展で訪れた方には そのままお庭を散策できるようになっています。 飲食したり、レジャーシートを持って日がな過ごすということは出来ないのですが、 静かに庭園の中を散策したい方にはお勧めです。 東京国立博物館の「…
~隋書が、魏志倭人伝から邪馬台国を削除していた~ 2024.3.18. 殿岡 誠一郎 魏志倭人伝によれば、邪馬台国は「山島」にあった。この「山島」こそが、倭人伝のキーワードであった。このキーワードをもとに、邪馬台国探求の旅が始まる。邪馬台国は、九州の北部沿岸にある“山”の麓にあったのだ。しかも、倭人伝にいう邪馬台国は、後世の中国の正史からは完全に無視されている。倭人伝が邪馬台国としたのは、邪馬台という地名の誤記または誤認、だった。 一方、中国歴代の正史は、各時代の日本の都の所在地を示していた。外交関係を結ぶためには必須の情報であるから当然であるが、それにとどまらず、中国の史書は、日本の歴史をそ…
NTTドコモ代々木ビル(通称ドコモタワー)のライトアップ この近くにあった信濃高遠藩内藤家が幕府に返上した下屋敷跡に、甲州街道沿いの新たな宿場の設置が認められたので「内藤新宿」と呼ばれ、新宿の地名の起こりとなったのだそうです。下屋敷跡は現在の新宿御苑一帯にあたります。 ※当ブログではアフィリエイト広告を利用しています NHKで長い間放送されていた「ブラタモリ」が大好きで、ここ数年は毎週欠かさず観ていました。 ですが、2024年3月9日(土)の放送をもって、いったんレギュラー放送は終了となったんですね。 番組の最後に特別な「番組終了のお知らせ」もなかったので、正直ショックですしとても寂しく思いま…
1 出自と人となり 薩摩藩尊王攘夷派の志士有馬新七(正義・括弧内は原注とない限り筆者注記、以下同様)の「都日記」の中に、「此は秋の半過(安政5年)八月廿九日の夜になむありける。竊に日下部氏が(中略)家に至りて宿り、水戸の殿人鮎澤伊太夫、征夷府の家人勝野豊作等の人々も集来て、夜もすがら酒飲みかはし、天下の形勢を深切に物語りしつ、寅の刻比宿を立出でぬ。都に疾く行かまほしく云々」、という一節がある。 ここに名のある日下部氏とは、薩摩藩士日下部伊三治(信政)である。日下部の父連(訥斎)は、もと海江田と称した薩摩藩士で、故あって脱藩して諸国を遊歴の後に水戸領内に住し、郷校益習館の館守を勤めた。伊三冶はこ…
函館市のお隣にある北斗市は、その名前を活用してよく北斗の拳とのコラボをやっている。 hokutoinfo.com上磯町と大野町が合併するときにいろいろ候補の名前があって、個人的には稲海市あたりが良いなと思っていたんだけど(大野平野は米どころだから)なぜか北斗市に決まってしまって釈然としない気持ちになった。 北斗といえば北見北斗(スポーツ強豪校)のイメージが強いし、一番めんどくさいのは北杜市という読み仮名がまったく同じの市があるところ。 そのせいで昔は「北斗市」で検索しても北杜市の結果しか出てこなくて憤懣やるかたなかった。それでも時がたつにつれて徐々に浸透してきたし、北斗の拳コラボイベントも定期…
こんばんは😀 セルフイメージサポーターみつ子です。 自己紹介はこちら ーーー 電車の中でビジネスマン風中年男性 二人連れの話が聞こえて来ました。 フレグランスの話をしていました。 円安だから結局日本で買うのが 一番安いと言ってました。 ちょっと仕事が暇なので外出がてら 多慶屋に下見に行ってみようと思いました。 久しぶりの上野~♪ アメ横にある摩利支天様にお詣りです。 そこは日本でない世界 中国語しか聞こえてこねぇ! 摩利支天へ昇る階段に中国人家族が ベターっと横長に座ってた。 階段や床にすぐ座るよね~ お堂の中も勝手に写真撮ってる。 だめだよ、神仏写したら! 落ち着け、自分 お祈りで挨拶済んだ…
マンガ『夢酔独言』を描くにあたって、特に参考にした資料をまとめました。各本参考ポイント解説付き。 そのうち増えるかもしれません。 ・『夢酔独言 他』 平凡社 東洋文庫138 勝小吉 著 勝部真長 編 ・『夢酔独言 現代語訳「勝小吉自伝」』 PHP研究所 勝部真長 編訳 ・『氷川清話』 講談社学術文庫1463 江藤淳 松浦玲 編 ・『勝海舟』 筑摩書房 松浦玲 ・『海舟語録』 講談社学術文庫 江藤淳・松浦玲 編 ・『江戸大古地図』 別冊宝島 菅野俊輔 監修 ・『勝小吉と勝海舟 「父子鷹」の明治維新』 山川出版社 大口勇次郎 ・『F.ベアト写真集1 幕末日本の風景と人びと』 明石書店 横浜開港資料…
中学時代の仲間と丸の内を散策した。仲間の何人かは現役時代にこの場所で勤務の経験がある。しかしその他の人にとっては仕事に行くだけの場所であったため、ビジネス街程度の認識しかない。そこで詳しい人から説明を受けながら、一度ゆっくりと散策してみようということになり、連れ立って出かけた。グーグルアースの3D地図からは、現在の町の様子がよく分かる。丸の内は、JRの東京駅と有楽町駅の間の線路と、皇居の内堀とに囲まれたところである。仲間たちが働いていた頃の建物の多くは取り壊され、皇居に遠慮して少し高層の建物が整然と立ち並んでいる。 それでは江戸時代はどうだったのだろう。御江戸大名小路絵図*1に描かれている。絵…
10月9日(月・祝) スポーツの日#旧暦 8月25日 庚子 友引 満 畢宿#二十四節気 #寒露 (かんろ)#七十二候 鴻雁来(こうがん きたる) 東都三十六景 下谷 広小路 下谷天満宮(五条天神と相殿)の祭礼日。現在は精養軒のそばにある五条天神は、京から勧請され、最初は山内、次に広小路黒門前脇に遷した後、広小路にあった神職で連歌師の瀬川氏邸内に鎮座していた。毎年節分におけら神事を催す 江戸切絵図 下谷絵図(部分) 東叡山黒門前 忍川 三橋 (江戸名所図会 巻5) ※寒露 (かんろ)暦便覧:陰寒の気に合って、露むすび凝らんとすれば也 ※毎朝、X(旧Twitter)にて投稿している #旧暦 #二十…
徳川家康が江戸の地を切り拓いた頃から、ここはまず水運の街となった。 幕府を開いた後は代々、天下普請で各大名に費用と人足を出させて、市中に堀を巡らす。 江戸は広域が沼だったことや急激に人口も増えていったことから、土地の整備とともに、物資運搬、木材運搬、諸々に、陸の道ではなく水路を利用しようと考えたのは、当時の科学技術からいったら合理的だったのね。地図を見ると、例えば、江戸市中から隅田川(下流域は大川とも呼ぶ)を越えた“深川“などにも「堀」がたくさん巡らされていることに気づく。材木を置く「木場」が沢山あったからね。 私は初めて行く場所で、(地図好きなくせに情けなくも実践に活かされず)、だいたい45…
全10回にわたってお届けした戸切地陣屋の連載ですが、読者からたくさんの質問をいただきました(こうのからもひとつ質問を追加)。現地のこと、連載内容に関すること、そこから派生した稜堡式城郭全般に対する質問など、さまざまな角度からの問いに対して時田学芸員が答えてくださっています。約18000字におよぶ、読み応えたっぷりの質疑応答となっていますので、ぜひお読みください! 読者からの質問とその回答 Q.時田学芸員が「現地でここは必見」とオススメできる見どころを教えてください(匿名希望さん) やはり一番感じてほしいのは戸切地陣屋がかの地に立つ所以となったロケーションの良さですね。それを感じられるおすすめの…
というわけで読み応えのある連載も今回で最終回です。戸切地陣屋を訪問したことのある方も、まだない方も非常に興味をそそられる内容だったのではないでしょうか。西洋式の城郭を日本の城の常識で測ること自体がナンセンスで、今回あらためてヨーロッパにおける築城術の歴史や系譜を知ることができたのは有意義でした。ぼくも早く自分の目で戸切地陣屋を見てみたいです! 前回の記事:4.「早すぎた」洋式軍学理論のゆくえ-戸切地陣屋、そして「日本の稜堡式城郭・堡塁」のその後 冒頭でもお話したとおり、戸切地陣屋の知名度は極めて低く、またその本質も百数十年にわたり解き明かされることはありませんでした。しかしここ5ヶ年の調査研究…
西洋の最先端の築城術を学び、見事に戸切地陣屋として具現化した藤原主馬でしたが、それで勝てるほど戦争は甘くはありません。勝敗は城や兵器をどう運用するかで決まるのに、残念ながら多くの藩士にとって主馬が江戸で学んできた理論や藩主・崇広の推し進めた施策は当時の理解を超えたものだったようです。せっかくの〈日本初の星形城郭〉もその真価を発揮することなく、その役割を終えることになります。 前回の記事:3-3.「日本最初の星の城」の原典への旅(3)-「野崎の丘」に実を結んだ19世紀フランス「砲戦の時代」の防衛構造・戸切地陣屋- こうして藤原主馬の手によって、サヴァールの著した欧州の近代陸戦理論に対応した砲戦陣…