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佐藤信淵

(サイエンス)
さとうのぶひろ

●明和6(1769)〜嘉永3(1850 )年。江戸後期の経世家〈;→ 江戸の「東京」改称を提案した!〉で農政学者。また地学の前段階ともいえる、鉱物学やそれに伴う地層学の研究家としても日本史上、傑出した人物である。いま「山師」とか「山勘」とか「山を当てる」あるいは「望気術」という表現の数々は、(それは道教や漢方医学が遠祖だが殊、日本においては)佐藤家の影響が甚大である。
●字は元海、通称は百輔。
●出羽国雄勝郡馬音内うまれ。(現在の秋田県雄勝郡羽後町。)
●但し、生誕地には二説あって、もう一つは羽後町郡山下郡。現在「佐藤信淵先生誕生之地」碑と「郡山信淵文庫」がある。前者;同町西馬音内裏町にも「佐藤信淵誕生地」碑はあり、近くの寶泉寺は佐藤家の菩提寺で、又川原田公園にもう一つの「信淵文庫」がある。
●天明3 (1783) 年に、今夏(2004年)も爆発再開の、浅間山が噴火している。信淵14歳の時である。
●天明5 (1785) 年、信淵16歳にして父;信季を失う。信淵が13歳の頃より奥羽、関東など諸国遊学の際、同行を許してくれた教育熱心な好い父であった。
●佐藤家は秋田藩士として代々鉱山・農業の学問を研究してきた家系であった。また、信淵がまだ幼児の頃、平賀源内が秋田へ訪れて来ている。阿仁鉱山の鉱脈調査を依頼されたためだった。百科全書的天才の平賀源内は、小田野直武と出会い、蘭画(=洋画)の技法を伝授して「秋田蘭画」を根付かせた。この源内の学問スタイルが信淵に大きく影響したのは間違いない。
●信淵は父;信季の死後、その遺言により江戸へ出て、蘭学・本草学を宇田川玄随に、儒学を井上仲竜、天文地理を木村泰蔵らに学び、更に諸方を遍歴して見聞を広め、諸藩に出入りして説を講じた。暫く上総大豆谷に閑居して著述をしていたが、再び江戸に出て幕府の神道方;吉川源十郎に入門し、更に47歳の時7歳年下の平田篤胤に師事。そして農政・物産・海防・兵学など多くの論説を著し、重商主義・絶対主義的な「国家社会主義」の構想を説いた。江戸を「東京」と改称し都を置く、二都制をも提唱した。国学の古道説に西洋天文学を交えた宇宙論を哲学的基礎として、農政経済論を説き、空想的な社会改革論を展開した。
●主著=『山相秘録』『農政本論』『経済要録』『復古法』『防海策』『天柱記』『混同秘策』『天地鎔造化育論』など。
●後半期には本多利明と共に、荻生徂徠において提起されたような封建制の制度改革案が、ヨ−ロッパの中央集権国家にヒントを得て、更に大規模な形で展開された。こうした制度改革の構想は、封建政治の多元性を克服せんがため、強大中央集権政府の樹立を目ざし、その結果必然、絶対主義へと突き進んで行った。維新以降の日本のポリティカルな思想としては、西郷隆盛の征韓論や、尊王論・尊王攘夷論よりも、遥かに重要である。しかし勿論、その「世界を混同する」ユ−トピア構想は、「易も漢方も帝釈天さえも全部日本が原産で、中国だのインドだのは中興させただけ」とする師匠;平田篤胤の逆ギレ版「本地垂迹説」に則っており、他の大人しい矢野玄道・権田直助・大国隆正といった門人に比べれば、信淵のみやたらと「真に受けた」面白みがある。
●同時期の科学者には他に伊能忠敬(1745〜1818年)の大幅に年下な師匠;高橋至時(1764〜1804年)などが居る。また文学であるが、滑稽本の十返舎一九(1765〜1839年)や、読本の曲亭馬琴こと滝沢解(1767〜1848年)とほぼ同世代な訳だ。更には佐藤一斎(1772〜1859年)も同時期だが、この人は江戸の陽明学者であるため交流は無さそうである。
●現在、秋田県雄勝郡羽後町には「佐藤信淵神社」なるものまで出来てある。極端な右翼系の復古神道などではなく、「頭のよくなる神社」としてPOPな「小-道真」みたいな祭られ方だ。

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