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杉浦重剛

(一般)
すぎうらしげたけ

杉浦重剛 1855-1924
杉浦重剛は少年期の裕仁に「ご進講」(つまり学校の先生役)をした人物だ。

明治・大正時代の教育家・思想家。号は梅窓・天台道士。維新後に貢進生として大学南校に入り、制度変更により東京開成学校に学ぶ。明治九年(1876)政府留学生としてイギリスに渡り、化学を学んで同十三年帰国。東京大学理学部博物場掛取締を経て十五年に東京大学予備門長となる。十八年に退いて読売新聞論説に従事。二十年には小村寿太郎らと乾坤社を創設し、井上馨外相の条約改正反対運動に参加。翌年政教社に加わり雑誌『日本人』発刊につくし、国粋主義を唱道。同年文部省参事官兼専門学務局次長となったが、二十三年退官して衆議院議員に当選、大成会に所属したがまもなく脱会し、翌年議員を辞職。この間、新聞『日本』を後援、日本倶楽部に参加、大隈重信外相の条約改正案反対運動に尽力。二十五年から三十七年まで東京朝日新聞論説員。二十三年東京英語学校長となり、二十五年に校名を日本中学校と改め、死に至るまで校長をつとめた。また称好塾を主宰して青少年の教育に力をつくした。また高等教育会議議員・国学院学監・東亜同文書院長・教育調査会会員を歴任したが、大正三年(1914)に東宮御学問所御用掛となって倫理を担当し、同十年に退任。著書『鬼哭子』(明治十七年)で「理学宗」を提唱し、人事の解釈に理学の応用を説いて、国粋主義運動でも異彩をはなった。儒教道徳と近代自然科学の折衷を目ざした教育についての論著が多い。未解放部落民の南洋移住論を提示した『樊?夢物語』(明治十九年)は国権的部落解放論の先駆として注目される。
出典:『国史大辞典 第八巻』(吉川弘文館、1987年)68頁。

杉浦重剛の 「理学宗」

「理学宗」とは、どういうものか?

一 勢力保存の説
 私は物理學の定則にあるやうなことを土臺として議論を立てることにする。(45-46p)
 例へば石を屋根の上に投上げるには、それに相當しただけの力がいる。しかし一度屋根の上に上げてしまつた以上は、これを支へる物から引離しさへすれば、何時でも容易に地上に落すことが出來る。而もこの落ちる力は、前に屋根の上にあげるのに要した力と同じである。
 これを人事に應用して見ても、やはり同一の結果を見ることが出来る。
 例へば、非常に徳の高い僧が、世の人々に厚く信用せられるのは、即ち平常肉食を禁じ、妻帯をせず、普通一般の人々が重要視する金銀財宝をも塵や芥のやうに顧みずひたすら自分の修養に努めて力を蓄積した。その常人以上の手段によつて蓄積せられた潜在力があつたからこそ、世間の人々の信用を一身に集め得たのである。
 この勢力保存から人間の間の出來事を説明するとつまりこんな事がいへる。勢力を餘計に蓄へた人程何時までも人々から尊ばれる。何時までも光りを残す。一番餘計に勢力を保存してゐるものが一番長く何時までも残るといふことになる。
 二 神
 我が皇祖皇宗は、我が國で一番古くから勢力を蓄へられたお方であつて、それが神として崇め尊ばれて、その後引續いて御代々今日まで萬世一系連綿としてゐるのである。だから勢力保存の道理から考へて見ると、どうしても日本では一番強い勢力を最も多く保存せられてゐるのである。また廣く世界から考へて見ても、日本の皇室ほど長く續いて勢力の保存をして居られるものは、外にはないといふことであつて見れば我が日本といふものは、どうしても世界萬國の第一位でなければならぬといふ議論は単なる空論ではない。
  出典:杉浦重剛「國軆と理学宗」杉浦重剛、白鳥庫吉、松宮春一郎『國軆眞義』(世界文庫刊行會、昭和3年)46-71頁から抜粋。

以上が、杉浦重剛自身による「國軆と理学宗」という文だ。「勢力保存の説」とは、エネルギー不変の法則のことのようだ。
「物理學の定則」に従うと、「一番餘計に勢力を保存してゐるものが一番長く何時までも残る」。「我が皇祖皇宗は、我が國で一番古くから勢力を蓄へられたお方」だから、エネルギーを日本でもっともたくさん蓄えている。「日本の皇室ほど長く續いて勢力の保存をして居られるものは、外にはない」から、世界一エネルギーをたくさん蓄えている。
杉浦重剛はそのように説明している。だが、これはほとんど同語反復だ。古代にエネルギーを蓄えているから長く続いていると説明するが、位置エネルギーを運動エネルギーに変換させて、世界で最も長く続いているのなら、もうじき運動エネルギーが尽きるのではないか? 〔そして第二次世界大戦でボロ負けに負けた天皇家にはもはやエネルギーが残っていない理屈になる〕
杉浦重剛は、運動エネルギー自体が位置エネルギーにそのまま変換して「永久運動」するかのような説明をしている。「永久運動」するとしたら、それはもう「物理學の定則」ではない。「理学宗」とは、このような理屈だ。〔この理屈が日本の「保守思想」の公式となり、現在の霊感詐欺カルトの「右翼思想」の源流となっている。〕

「政祭一致の国体」

 八 大和魂
 我が國の政體が、昔から所謂政祭一致であつて、如何にも平易に且つ國内を統べ治めるに便利なことは、世界にその比を見ない所である。政祭一致とは、即ち宗教と政治とが一途に出づるようになつてゐることをいふ。昔からのヨーロッパの國々の歴史を調べて見ると、宗教の為に政治の上に大變亂の起つたことは、殆ど數ふるに遑まのない程であるが、幸に我が國では、開闢以來、宗教の為に國中が一般に大害を受けたといふ例はなかつた。これは全く我が國が、大昔政祭一致と云ふ単純な制度を以つて、國を建てたその結果に外ならない。(68-69p)
この我が國民がもつてゐる、一種特別の精神こそ、世間一般でいふ大和魂であつて我が國風を形付る最も光輝ある最も必要な原素である。
そしてこれを養成する方法はいろいろあろうけれども、これはたゞ理屈ばかりではなしに、感情にうつたへる事が甚だ必要である。
  出典:杉浦重剛「國軆と理学宗」杉浦重剛、白鳥庫吉、松宮春一郎『國軆眞義』(世界文庫刊行會、昭和3年)46-71頁から抜粋。

ここでは、日本を「政祭一致」であり「開闢以來、宗教の為に國中が一般に大害を受けたといふ例はなかつた」と杉浦重剛は述べている。鎌倉仏教や一向一揆といった中世史を全て無視・忘却している。言うまでもなく「政教分離」は近代国家の根本精神だが、杉浦重剛は「政教分離」の価値を理解していない。その杉浦重剛が、裕仁の「倫理」を「進講」した害悪は、大きい。
「この我が國民がもつてゐる、一種特別の精神」という言葉には、留学先のイギリスで物質的な敗北感に打ちのめされた杉浦重剛が、外見では負けていても心で勝っている、と、内面的勝利をしようとしているのが読み取れる。平たく言えば、根拠のない負け惜しみをするために、計ることのできない「精神」を賞揚している。思うだけならタダだ。
「一種特別の」とか、「の妙」という言葉は、しばしば戦中戦前の文に散見するが、「理性的に判断しません」「考えるのをやめます」「でも負け惜しみを言います、言わせろ、でもって呑み込め」という意味だ。
「これはたゞ理屈ばかりではなしに、感情にうつたへる事が甚だ必要」と、杉浦重剛は述べている。これは「理性で判断すると(ムリを主張しているから)破綻がばれる、だから理性で考えるのはやめてくれ、ていうか、やめろ」という意味だ。

以下は杉浦重剛が「倫理御進講の趣旨」を自ら述べたものだ。「三種の神器に則り」「五条の御誓文を以て」「教育勅語の御趣旨の貫徹を期し」と杉浦重剛は裕仁への教育方針を語っている。

倫理御進講の趣旨
東宮殿下に奉侍して倫理を進講すべきの命を拝したるは無上の光栄とする所なり。(略)今進講に就きて大体の方針を定め左に之を陳述せんとす。
一、三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと。
一、五条の御誓文を以て将来の標準と為し給ふべきこと。
一、教育勅語の御趣旨の貫徹を期し給ふべきこと。
第一、三種の神器及び之と共に賜はりたる天壌無窮の神勅は我国家成立の根柢にして国体の淵源また実に此に存す。是れ最も先づ覚知せられざるべからざる所なり。殊に神器に託して与へられたる知仁勇三徳の教訓は国を統べ民を治むるに一日も忘るべからざる所にして真に万世不易の大道たり。
第二、我国は鎌倉時代以後凡そ七百年間政権武家の手に在りしに明治天皇に至りて再び之を朝廷に収め更に御一新の政を行はせられんとするに当り先づ大方針を立てて天地神明に誓はせられたるもの即ち五条の御誓文なり。爾来世運大に進み憲法発布となり議会開設となり我国旧時の面目を一新したるも万般の施政皆ご誓文の趣旨を遂行せられたるに他ならず。
  出典:杉浦重剛「倫理御進講草案」『杉浦重剛全集 第四巻 倫理思想』(杉浦重剛全集刊行会、昭和五十七年)

杉浦重剛は「三種の神器」を徳の象徴、皇位正統性の根拠だとした。「五箇条の誓文」の叡智を強調し、時代的背景を無視した。杉浦重剛は日本の君主の道徳的優越性を「教育勅語」を用い強調した。憲法は軽視した。

「教育勅語」御進講
 第一回
  朕惟フニ我カ皇祖皇宗国ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ
教育勅語を下し給ひし所以
 王政維新後、我国は長足の進歩をなし、各方面に於て絢爛たる文明の華を開けり。然れども其の裏面には、欧米の文物を輸入するに急なりし為め、官民共に欧風に心酔し、一も西洋二も西洋と称し、二千五百有余年来発達し来れる我が国固有の文明も、世界無比の歴史的精神も、殆ど顧みるものなく、正に思想界の危機に瀕せり。されば教育方面にありても、古来の国民道徳と称す可き忠孝、節義、誠実の美風は全く忘れ去られんとするに似たり。故に国民教育の上に一定の主義、標準なく、一方に極端なる欧米風を鼓吹するものあれば、他方には時局の趨向に背反して、頑迷固陋に陥るものある等、混乱、放縦、帰向する所を知らず。明治天皇深くこゝに軫念したまひ、遂に忝くも教育勅語を下し給ひ、以て我国の歴史的精神、国体の精華、及び凡て是れより出発する国民道徳の大本を教示し給へり。
 先年、菊池男爵は英国教育会の招聘に応じ、英国に航し、日本教育の方針は教育勅語に基く事を講演せられき。英国知名の学者、教育家は菊池男の講演に感激し、日本国の国体の淵源、宏遠にして、国民教育の確乎不動なるを羨望し、英国にも日本の如く拠りて以て立つべき大方針あらば、国民教育上如何ばかり有益ならんと云へりといふ。これを見ても、明治天皇の下し給へる勅語は日本国民永遠の生命なること知るべきなり。
  出典:杉浦重剛「倫理御進講草案」『杉浦重剛全集 第四巻 倫理思想』(杉浦重剛全集刊行会、昭和五十七年)722-723頁。

杉浦重剛は「ご進講」を通じて日本のナショナリズムと膨張主義を賛美し、人種間の対抗意識を植え付け、「世界の歴史は黄白両人種角逐の歴史」だと教え、通俗的「社会ダーウィニズム」の国際関係観を「ご進講」した。

第五学年(第三学期) 第三 人種
 史を按ずるに此等の諸族は同民族間において相戦ふこと多かりしは、明白なる事実なるも、特に東西民族の相対抗するに於て、其の規模の最も大なりしを見る。
 マケドニアの歴山大王が西暦前三三四年、兵を率ゐて東征の途に上り、十余年に亙りて波斯、埃及、中央亜細亜、印度等の諸地を蹂躙したるは、東西衝突の第一なるべし。然れども波斯、印度は概ね「アーリア」人種なり。唯中亜には黄色人種多かりしなるべし。
 第二には蒙古人の欧州侵略あり。(略)是れ全く黄白両人種の衝突なりき。
 第三には近世に於ける西人の東漸是なり。一四九八年(後土御門天皇 明応七年)葡萄牙人ヴスコダガマが印度航路を発見してより、西班牙人、和蘭人、英吉利人、続々として東航し来り、為に印度、緬甸、安南等の諸国並に南海の諸島皆其の独立を失ふに至れり。加之、露国はウラル山を踰えて東し、西伯利一帯の地を侵略して、満州、朝鮮等を圧し、遂に我が国にも逼らんとするの形勢ありて、日露の開戦を見るに至りたり。
 此の如く最近欧人の東漸は、白色人種が黄色人種を圧倒し去らんとするものなり。暹羅の如きは僅に独立の名を有するも、其の実力なきは勿論、支那の如き大国と雖も多年内乱相次ぎて国家統一の実なく、到底白人の勢力に拮抗するに足らず。唯極東に我が日本帝国ありて僅に西人東侵の勢を扼止するを得たり。
 加ふるに亜米利加人も其の所謂モンロー主義を脱出して、帝国主義を執り、次第に勢力を東洋に伸張して布哇を取り、フイリツピンを取り、支那満州にも商権を拡張せんとするは現今の状態なり。
 此の如く観じ来れば、世界の歴史は黄白両人種競争角逐の歴史なり。現今の形勢も亦両人種争衝の観あること明白なりとす。彼は即ち黄禍を叫び、我は即ち白禍を憤る。例えば仏人コビノーの如きは権威ある学者として称せらるゝものなるが、世界の人種には開化に縁なきものと、開化せられ得るものと、他を開化し得るものとの三大別ありと為し、之を黒人、黄人、白人と為せり。而して先づ黒人の低能なるを軽侮し、更に黄人の意志知力共に微弱なるを説けり。(此の議論の要点は森林太郎訳出)此の如く白人の視て以て劣等と為せる所の黄人が其の勢力を振起し来るは、是れ彼等が黄禍の叫を発する所以なり。(略)
世界幾多の邦国は其の国際を円満にして一家の如く平和を保ち、互に其の幸福を増進するは最も喜ぶべき所なり。又幾多の人種ありと雖も、互いに手を携へて文明の域に進むことは、人類の理想と為すべし。然れども欧米人は動もすれば有色人種を軽侮するの先入的観念を有することあり。人種差別を撤廃すること難かるべし。之を我が国に見るに、王政維新以来四民平等を主義とするも、今日猶ほ旧時の穢多非人を軽侮するの風ありて、近頃之が救済改良を目的とする会合ありたる程なり。されば我が国は、人種的差別撤廃の主張の貫徹し得るや否やに拘はらず、毅然として己を持するの道を立つること最も肝要なりとす。他なし、我が国家、我が国民は、仁愛と正義とを以て終始を貫き彼等欧米人をして心服せざらんとするも得べからざるに至らしむること是なり。若し能く此の如くなるを得ば、人種的差別撤廃の如き、固より憂ふるに足らざるなり。(後略)
出典:杉浦重剛「倫理御進講草案」『杉浦重剛全集 第四巻 倫理思想』(杉浦重剛全集刊行会、昭和五十七年)582-584頁。

皇室と右翼は杉浦重剛を通じて結びついた

「宮中某重大事件」に絡み、杉浦重剛は皇室と右翼を結びつけ、裕仁の成婚の護衛に暴力団を使った。

右翼団体、成婚式の警戒に出動 
 大正十三年(1924)一月太子の成婚式がおこなわれた。(中略)陸軍大学の立花小一郎、国粋会総裁の大木伯、大震災時の戒厳司令官福田大将や上杉博士、貴院の右翼議員副島伯たちは急いで大日本国粋青年団を作り、京浜間のバクチの親分ら一千人、黒竜会など十余団体とともに、成婚式における太子の行列の沿道警戒に当った。これに在郷軍人会や青年団も動員された。(略)
 五月三十一日から豊明殿において三千七百人を招いた大宴会が催された。民間人としては三井、三菱、住友ら財界の代表、『朝日』『毎日』など言論界代表、成金の山下、山形の本間ら二十名と共に頭山も招かれた(藤本『巨人頭山満翁』p738)。浪人でテロリストの親分が、良子女王冊立の裏面運動の功績を認められて、招かれた。皇室と右翼は杉浦を通じて結びついた。この招待はその一例だ。
 出典:ねずまさし『天皇と昭和史 上』(三一書房、1988年)31-32頁。

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