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石黒敬七

(スポーツ)
いしぐろけいしち

明治30年〜昭和49年。柔道家、放送タレント、随筆家。
コレクターとしても有名で、石黒コレクションは新潟県柏崎市に「とんちン館」として公開中。http://www.page.sannet.ne.jp/o-ko/cont.html

また、子息の石黒敬章は、敬七の写真コレクションを元にした著作を何冊も著している。

明治30年8月10日 新潟県柏崎比角(現在の四谷2丁目)に生をうけた。縮み商の7番目ということもあり、敬七と名付けられた。

柏崎中学在学中に、柔道初段、早稲田大学柔道部では主将をつとめ活躍、毎年一段ずつ昇段してたちまち五段となる。警視庁・拓大・法大などの師範をつとめ、大正13年、27歳のとき、自分で “石黒敬七君を渡仏させる会“ をつくり、奉賀帳を回し資金を作り渡仏をはたす。フランスに渡り、当時売り出し中の画家藤田嗣治らと親交を結び、パリのオペラ座で柔道のエキジビジョンを行ない勇名をはせた。その後、イギリス・トルコ・ルーマニア・エジプトなどの陸軍や警察で柔道を教えた。

また、パリでは 巴里週報という新聞を発刊したり、サロンド・トンヌ展に連続入選したり、体育会系らしくない、文系方面にも才能を発揮した。

昭和8年に帰国し、講堂館の審査員になる。

その後、文芸春秋の客員などをこなし、戦後の暗い世相をはらうべく、ラジオ番組(NHK)とんち教室の企画段階から参加、大ボケの石黒旦那として人気を集めた。

郷土を愛し、コレクションの基礎も郷土の先輩黒船館の吉田正太郎さんの影響が強かったようである。

昭和49年10月、77歳にて没


また、晩年はパチンコが趣味で、自宅にパチンコ台を据え付けるほどであったという。

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