日本紀。にほんき、にっぽんき、やまとのふみとも読む。
日本書紀のことで、此方の方こそ日本書紀の元の正称とする説が有利である。
例として、『釈日本紀』『大日本史』では『日本書紀』を言及する時は概ね『日本紀』という呼称を使う。
→日本書紀
大倉精神文化研究所という公益財団法人があります。「東西両洋における精神文化及び地域における歴史・文化に関する科学的研究及び普及活動を行い、国民の知性及び道義の高揚を図ることにより、心豊かな国民生活の実現に資し、もって日本文化の振興及び世界の文化の進展に寄与する」 ことを目的に、昭和七年に設立。今日に至るまで数々の良書、論文を世に送り出してきました。その代表が設立当初から今日まで版を重ねるロングセラー、『神典』です。 『神典』は、わが国の主な古典を読みやすく編集した本で、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』の全文と『続日本紀』に収録された『宣命』、『中臣寿詞』、及び『令義解』、『律』、『延喜式…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 日本の脅威は、人ではなく自然であった。 ・ ・ ・ 日本列島とは、同時多発的に頻発する複合災害多発地帯である。 日本の自然は、数万年前の旧石器時代・縄文時代から日本列島に住む生物・人間を何度も死滅・絶滅・消滅させる為に世にも恐ろしい災厄・災害を起こしていた。 ・ ・ ・ 日本民族は、旧石器時代・縄文時代からいつ何時天災・飢餓・疫病・大火などの不運に襲われて死ぬか判らない残酷な日本列島で、四六時中、死と隣り合わせの世間の中で生きてきた。 ・ ・ ・ 現代日本人は、民族的な伝統力・文化…
築地場外市場に行ったついでに寄った。「ついで」と言いながら、買い物より時間をかけた2019年12月18日のこと…… 左が波除神社で右が場外になるが、写真正面にあった築地場内市場は跡形もなかった。前年は豊洲に行ったのだが、遠すぎて疲れたのではこの年は築地場外にした私。 「海幸橋(かいこうばし)」……昭和2年(1927年)に波除神社と築地市場との間の川にアーチ型の橋が架けられた。平成7年(1995年)に川が埋め立てられ、橋は平成14年(2002年)に撤去されたが、鋼鉄製の親柱2基は記念物として保存されている。破損した部材をもと通りに修復し、塗装も創架当時の濃緑色に戻してあるとのこと。もう1基は旧市…
鹿島の神は、タケミカヅチ。 自明のことと思われるが、何と古事記にも・日本書紀にも、常陸風土記にも鹿島の神が「タケミカヅチ」だとは記されていない。 いつ頃鹿島の神が「タケミカヅチ」と書物に書かれるようになったのか。その書物は、何と言うのだろうか。 狛犬 常陸の国風土記の那賀の香島大神 p41 ・風土記は和銅6年713年の中央官命に基づく ・純漢文体 ・藤原の宇合(不比等の子・鎌足の孫)と ・高橋虫麿が完了 風土記は、和銅6年の中央からの命令で各国でつくられた。常陸の国も、この命令によって常陸風土記をつくった。 常陸風土記の完成に、深く関わったのが、藤原鎌足の孫で不比等の子で藤原式家の祖となった宇…
則任の妻は、「土師ノ中納言敏素」息女という。これは、仙台叢書の野史にある。 中納言は閣僚であり、この時代に陸奥に来た閣僚の子孫は、菅原道真氏関係の子孫しかいないのではないか。これは著者の意見だが、900年代に菅原道真氏の妻が、現奥州市前沢生母(墓は田河津)、子が現奥州市姉体町に配流されている。姉体町に菅原神社2社、田河津に菅公夫人の墓がある。その約100年後に子孫が白鳥舘の則任と結婚するという想定だが、郷土史になく確証はない。 しかし、藤原道真氏は、中納言を経て大納言、右大臣まで勤めている。当時の歴代の閣僚でほかに陸奥に関係する閣僚はいないと考えられたが・・・。 土師氏は、古墳や土師器などを生…
医王山正智院泰平寺(たいへいじ)は鹿児島県薩摩川内市大小路町にある。かつての薩摩国の高城郡(たきのこおり)の水引郷(みずひきごう)のうち。 天正15年(1587年)、豊臣秀吉は島津氏を攻める。大軍勢を率いて薩摩国に入り、陣を置いた場所は泰平寺であった。豊臣軍は圧倒的な兵力で島津方を敗走させる。島津義久(しまづよしひさ)は降伏。そして、剃髪して泰平寺におもむいた。豊臣秀吉に面会し、降伏が正式に認められた。 豊臣秀吉が引き連れていた兵は10万以上とも。これほどの大軍勢が駐屯できる場所はそうそうない。泰平寺は大寺院だったことがうかがえる。 明治初めの廃仏毀釈で泰平寺は徹底的に壊され、伽藍跡などは残っ…
・ ・ ・ 関連ブログを6つ立ち上げる。プロフィールに情報。 ・ ・ {東山道・美濃国・百姓の次男・栗山正博}・ 徳川幕府は、経済面や国防の面から蝦夷地のアイヌを間接保護する必要があった。 蝦夷地やアイヌ人に対する差別は、江戸時代と現代日本では全然違う。 その証拠に、徳川幕府は世界で蔓延していた疫病からアイヌ人を救っていた。 ・ ・ ・ アイヌ人は、江戸時代を支え、日本国の存亡を握っていた。 ・ ・ ・ 蝦夷地は(北海道)は日本の植民地ではなく、アイヌは北方の土人であったが日本の植民地人・奴隷ではなかった。 アイヌ民族と日本民族・琉球民族は。兄弟民族で縄文人の子孫である。 ・ ・ ・ 2024…
3月16日に川崎市高津区役所橘出張所2階大会議室で開催され令和5年度 第3回橘樹学連続講座 古代橘樹を知り、活用する!! 「橘樹官衙遺跡群成立 前夜の古墳」に参加(聴講)した。「橘樹学」は、古代の役所跡や寺院跡が発見されている川崎市初の国史跡である橘樹官衙遺跡群に関連した内容をテーマに講義を行う講座で、今回は、青木敬氏(國學院大學文学部教授)・小林孝秀氏(専修大学文学部准教授)・新井悟(教育委員会事務局文化財課学芸員)を講師とし、橘樹官衙遺跡群成立前夜の「古墳」について取り上げ、どのような経緯で古代の役所を橘樹という地に設置したのか知り、古代をより身近に感じる機会として開催された。定員の倍の応…
朝ごはん( ^ω^ ) pic.twitter.com/lyzKGGgiOf — たかの朱美 (@gohan_takano) 2024年4月10日 晩ごはん( ^ω^ ) pic.twitter.com/ItbhYxv0X0 — たかの朱美 (@gohan_takano) 2024年4月11日 https://t.co/qXjCIA6Uj0 — たかの朱美 (@gohan_takano) 2024年4月10日 ネコ、ずっと眠い。病気かもしれない。違う。ずっと起きている人間がおかしい。人間が、病気。 — キジネコ様 (@Motidukineko) 2024年4月10日 北イタリアのコモ湖の周りで…
-------------------------------------------------------------------------------------------------- 奈良時代末期の延暦元年(782)『続日本紀』に「田村後宮の今木大神に従四位を授ける」とあり、平城宮の宮中(桓武天皇の父光仁天皇の御所)に祀られていました。 ここ平野の地には、延暦13年(794)平安遷都と同時にご遷座されました。 当初境内地は方八町余(平安尺で1500m四方)で、現在の京都御所とほぼ同じ大きさでしたが、時の変遷とともに現在の200m弱四方となりました。 ---------------…
最近は車での旅行が多かったのですが、ひさしぶりに新幹線を使って、しまなみ海道と尾道の二日間の家族旅行を楽しんできました。 しまなみ海道は、広島県の尾道と愛媛県の今治を、瀬戸内海の島々(大きな島は向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島の六つ)を経由して結ぶ、西瀬戸自動車道(59.4km)の愛称です。一度走ってみたかったんだよね。島々にいくつもの大きな橋が架かっていて、自転車や(やる気なら)歩いてでも渡れるし、実際そういう人たちも見かけました。 朝起きたらいい天気、自宅を七時半に出て、まずは車で東海道新幹線の岐阜羽島駅まで。充分余裕をもって出たつもりでしたが、朝のラッシュ時で一時間かかり、列車の…
日田に来ています。生桜の前菜!? 釜揚げされたばかりのシラス、ツクシのお浸し、最高でした。 福岡空港に着いた時、寒くてビックリしましたが、日田も肌寒いので露天風呂はどうかな? 暗かったので、撮れたのが不思議…としか言いようのない画像です。 部屋の露天風呂からの夜景。明日の午後には入れるでしょうか? 三隈川沿いのホテル、川側のお部屋に泊まっているので、早朝の景色が楽しみです。 明日は五馬媛の里で古代歌謡を演奏する予定なんです。 日本の古代歌謡が、他国の歌に比べて、年代の幅が大きいと感じるのは、 古代中国に倣い、王朝が変わらない限り、度量衡や音律を変えないため。 ヤマト王権が701年の『大宝律令』…
薩摩国の設置は、『続日本紀』によると大宝2年(702年)のこととされる。国府が置かれたの薩摩半島西部の川内(せんだい)であった。川内には薩摩国分寺跡がある。国の史跡にも指定。「薩摩国分寺跡史跡公園」として整備されている。場所は鹿児島県薩摩川内市国分寺町。 天平13年(741年)に聖武天皇の詔により、国ごとに国分寺を設置することになった。薩摩国分寺もその一つだ。 また、薩摩国分寺跡のすぐ近くにある「万葉の散歩道」もあわせて紹介する。ここには『万葉集』に収録された歌の碑がちょっとある。また、大伴家持(おおとものやかもち)の像も。大伴家持は薩摩守に任じられ、この地に居た時期がある。 薩摩国分寺跡へ …
大きい地図・ルート検索 ( powered by ゼンリン地図 いつもNAVI ) kegojinja.or.jp 西鉄福岡駅や福岡三越のちかく、隣が警固公園という立地のせいもあってか、ひごろは混みあう神社です。 本殿に警固大神(神直毘神・大直毘神・八十禍津日神)、相殿に建角身神・豊玉姫命・神功皇后・応神天皇を祀る。(略)社伝では神功皇后による三韓征伐の際、皇后の船団を守護し勝利に導いた警固大神を福崎(現在の福岡城本丸周辺)の地に祀ったのが始まりとされる。慶長6年(1601年)福岡城築城の際に下警固村(現在の福岡市中央区天神周辺)に移され、慶長13年(1608年)に福岡城主黒田長政によって現在…
薩摩半島の西側に川内(せんだい)というところがある。ここに天辰寺前古墳(あまたつてらまえこふん)がある。場所は鹿児島県薩摩川内市天辰町。 この古墳は2008年6月に発見された。区画整理工事の中で大きな石がでてきて、動かすと空洞になっていたという。そこは石室だった。盗掘の形跡はなく、遺骨と副葬品が出てきたという。被葬者は壮年の女性。副葬品などから身分の高い人物であり、5世紀初め頃に埋葬されたと推測される。 ここを「天辰寺前古墳」と命名。「天辰寺前古墳史跡公園」として整備されている。 丘の上にあるのは円墳か? 久木原神社 古石塔もある 川内には、古代に大きなクニがあった? ニニギノミコトの神話から…