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片倉景綱

社会

片倉景綱

かたくらかげつな

安土桃山時代の武将。伊達氏家臣。小十郎と称する。

米沢八幡神職を務めていたが、天正3年(1575)19歳の時、世子・伊達政宗(9歳)の徒小姓となる。以来、没すまで伊達成実茂庭綱元らと共に政宗の両腕となり活躍した。特に同18年3月、豊臣秀吉小田原に進攻した際、参陣を迷っていた政宗に「夏の蝿は払っても来る。結局は疲れて敗れることは必定」と言い決断を促した話は有名。慶長7年(1602)12月、軍事上の拠点である白石城を与えられ城の修復と城下の整備に着手。明治に至るまで白石を統治した。武勇のみならず謀将として政宗に信頼され奉行職にも就任した。その才が豊臣秀吉の目に止まり、田村郡内5万石で誘われたが謝絶した。殉死者6人。兵法に通じ、書、能も巧みであった他笛の名手としても知られた。

 嫡子の重長(重綱)は大坂の陣で伊達勢の先鋒を務めるなど「鬼小十郎」とし称され、真田幸村の子女を保護し、仙台真田家の生みの親となった。