袁譚(えんたん、生年不詳〜205年)字は顕思。中国の後漢時代末期の武将。豫州汝南郡汝陽県の人。後漢末の諸侯の一人で三公を輩出した名門袁家の棟梁である袁紹の長子。袁煕、袁尚の兄。劉氏が母の袁尚とは異母兄弟と思われる。従兄弟に高幹。また、他に袁買という人物がいるが、袁譚の弟説や、袁尚の兄の子説が有り、袁譚にとって子・甥のいずれであるかは不明。
私は袁術のファンということではないのだがここのところ袁術絡みの記事を多く書いた。袁術自体は記述が少なくその謎が多いながらも、袁術の周縁(曹操、劉備、孫策、呂布)には考察の情報が豊富であるということも理由だろう。 190年代の袁紹陣営など公孫瓚や黒山賊、張楊から考察しなければいけない。それに比べればずっと楽だ。 それでも敢えて避けているテーマはある。袁術の揚州入り前の揚州刺史を巡る疑問、揚州入りの際の戦闘、孫賁の豫州刺史任命の問題など、書こうかと思いつつも放置している。 だが、ここのところの袁術絡みの記事のついでに頭の中で膨らんできた想像についてはメモをまとめておきたい。それは袁術の衰亡に関して…
【ア行】韋康···曹操配下の、民政担当。涼州攻略の時に連れられる。馬超に殺られる。 伊籍···字は機伯。劉表の家臣。その後、劉備の配下。信頼できるし、誠実。痩身で涼やかな目。劉表と陳元夫人に恩を感じる。力量はあるが、野心がない。病死。死ぬ間際に法律の本と、物の値段や市場のあり方の本二冊を記す。どちらも非常に素晴らしい本。 尹貞···司馬懿の軍学の師。今は司馬懿の参謀。戦より、諜略に卓抜なものを持つ。額から右目にかけて赤痣があり、隠すために顔を右にそむける癖がある。常人では思い付かないような汚い諜略をやる。司馬家が絶対的なものとして思っており、魏のことは二の次。姜維の槍を受けて死ぬ。 于禁···…
2009年10月10日第1刷 裏表紙「曹操はついに立った。天子を奉じることを決断。七年前に脱出した洛陽へと向かう。時代は、攅峰を均すという作業をはじめた。ひときわ高い山だけが残る。たれに帰服すればよいか―志のあるものは、高山の麓に集まりつつある。呂布、公孫瓚、袁術らが舞台から姿を消し、いよいよ曹操と袁紹は天下分け目の『官渡の戦い』へ。」 孫策は袁術の正体が偽君子であると心中で断定し、袁術の諒解を得て遠征することにした。孫策は呉に到着し、周瑜を出迎えた。袁紹は自らが天子になることを夢想した。献帝を今こそ守るべきとの沮授の意見を聞き、郭図を献帝に謁見させた。献帝に同情した郭図は沮授と同じ意見を袁紹…
後漢書には應奉伝がある。應奉は汝南南頓の人で、150年代~160年代に武陵蠻に反乱の平定に功績があった。党錮の禁が起こると(166年)引退し、著作活動に専念した。 應奉の子が應劭である。應奉伝に続いて應劭の事績が記述されているが、記述量は父親よりも多い。 應劭は父親同様に博覧強記の人であり、始めに車騎將軍の何苗の掾になったというが、これは時期的に少し疑義がある。(何苗が車騎將軍となったのは時期的にもっと後であろう)185年、韓遂らの反乱鎮圧に鮮卑を徴発しようという案があり、應劭はそれに反対したようで、その議論が残っている。そして朝廷は應劭の意見を採用した。189年、泰山太守となり、191年には…
三国志と信長の野望をやるときに武将の能力を細かく調整するのが趣味なんですが、何を根拠に自分がそういう調整を行ったのかがわからなくなることが多いため、メモとして残すことにしました。 三国志のエディットは「史実に寄せる人」と「演義に寄せる人」で分かれると思います。自分は基本的に史実と演義のいいとこ取りをする方針です。そのため、全体的に数値がインフレ化する傾向にあります。 また、各内容はインターネットで5分程度で調べて適当に解釈したものなので、間違っている可能性がかなりあります。 ステータス・スキルセットは三國志14PKの物です。主義・政策は調整による影響力が強すぎるので基本変えてません。 全武将の…
前回に引き続きFC版「天地を喰らう」の攻略を。ナンヨウで袁術を倒した所から再開 shadowofjump.hatenablog.com 後で必要になるので右上の方にいる人物からぎんのかぎを購入しておく事。また、その少し左を調べるとけんが入手できる。そして役所で劉備を呼び、王宮で話すと袁紹が袁術の敵討ちに動いているとの報が ナンヨウを出て北に向かうといきなり袁紹が戦闘を仕掛けて来るが、1ターン一方的に殴ると去って行く。ついでに呂布が裏切って袁紹についていくが、前回触れた通り兵士数が少なくて意外と頼りないのでそんなに痛手ではない 袁紹を追うように北東のボッカイへ向かい呂廣と戦闘。勝って中に入ると橋…
建安3年頃、袁紹は公孫瓉と戦っており、一方で曹操は李傕・呂布・張楊といった勢力を下し、袁術を退けていた。 示し合わせたわけではないのだろうけど、袁紹と曹操はそれぞれが自分にとっての背後の敵を早急に下し、それから袁紹は曹操を、曹操は袁紹をその敵と挟み撃ちにしよう、という戦略でいたんじゃないかと思う。 精密に検討したわけじゃないが、そこまでの時点なら両者の軍事力に大きな差はなかっただろうと思う。むしろ曹操優位だったのかもしれない。 この戦略はまずは曹操が成功しかけたが、袁紹が思った以上に早く公孫瓉を下したことと、曹操が献帝から殺害命令を出され劉備に背かれたことで大逆転を果たし、袁紹の方が冀州牧袁紹…
・TVアニメ『蒼天航路』に登場するキャラクターとそれを演じた声優 関羽 --- 諸角憲一 趙雲 --- 森川智之 諸葛亮 --- 平田広明 張飛 --- 関貴昭 ・『三国志演義』に登場する人物と、それが仕えた君主 伊籍 --- 劉備 李儒 --- 董卓 張昭 --- 孫権 ・小説『三国志演義』に登場する孟獲の配下の武将と元帥として担当していた洞 阿会喃 --- 第三洞 董荼那 --- 第二洞 金環三結 --- 第一洞 ・小説『三国志演義』の登場人物と、その字(あざな) 曹昂 --- 子脩 曹植 --- 子建 曹彰 --- 子文 関羽 --- 雲長 黄忠 --- 漢升 張飛 --- 翼徳 趙雲 …
さて、今回は曹整の紹介じゃな。彼は曹操の息子なんじゃが、従叔父の曹紹の後を継いだ人物だったんじゃ。それ以外に彼はちょっとした、数奇な運命をたどった人物でもあるんじゃよ。
前回の続き。前回はアップしたあとに気づいたことがあり、追記してある。公孫度は青州に拠点を持っており、曹操陣営の領域である北海郡、城陽郡からであれば袁紹の勢力圏を通らずに遼東半島に行けそうだ。それならば199年以降のどのタイミングに樂浪太守となっても問題はない。ただし、太守任命が公孫度対策と関係あるならば袁紹との開戦前夜の199年に任命するのが自然だろう。 さて、涼茂は遼東半島に渡ると「公孫度はこれを引き留め、樂浪郡へ行かせなかったが涼茂が公孫度に屈服することはなかった。」私の推測では、抑留されることは想定通りで、ただし公孫度の属官任命などは受けず、客分として、曹操陣営の使節として意見を言う立場…
曹操を当初から支えた四人の親族・姻族がいる。夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹洪である。※ここでは前回見た曹純はいったん除いておく。 曹操の父の曹嵩は宦官の曹騰の養子となったが、曹仁、曹洪はそれぞれ曹騰の兄弟の孫であり、曹操とは「はとこ」の関係にある。祖父が宦官のため、曹操には「いとこ」はいない。自分の兄弟を除けば、もっとも近い同世代の親族が曹仁と曹洪である。 曹操の父、曹嵩の生家は不明である。「曹瞞傳」「世語」では夏侯氏の子で、曹操と夏侯惇は「いとこ」だと言う。その真偽の議論にはここでは踏み込まない。確かなのは、曹氏と夏侯氏はどちらも譙県を住まいとし、代々通婚関係にあった。そして曹操の娘の清河長公主も…
曹操を支えた「親族姻族集団」。夏侯惇、曹洪、曹仁、夏侯淵。しかしもう一人忘れてはいけないのが曹純である。 普段それほどWikiを見たりしないのだが、 記事のたびにWikiに言及している気がする。まぁ良いだろう、曹純のWikiで気になった事について書く。 日本語Wikiでは曹純の生年を174年とし、根拠として英雄記を引いている。曹純は20歳で曹操に従い襄邑に赴いた、という記述を根拠としているが、それを193年の袁術攻撃の時の出来事と断定するのはWikiを編集した人の推測である。なぜ襄邑に赴いたのが193年の一度きりと考えたのか、これは飛躍である。 一方の中文Wikiは生年を170年としている。こ…
昌豨が曹操の何を不満に思ったのかは分からない。しかし、ただ一郡/一国の主に過ぎない昌豨がなぜ反乱できたか。しかも2度の反乱はいずれも曹操を手こずらせている。 ※後出師の表では「曹操五攻昌霸不下」とあるが、これは語呂合わせだろう。 一度目の反乱は、劉備に同調したものであるため分かりやすい。曹操が劉備平定に自ら赴くと、劉備は戦わずして袁紹のもとに逃亡する。それは予想外の展開ではあったろうが、曹操はそのあと袁紹の侵攻を受け、官渡の地まで引き下がっての持久戦となる。この戦いで活躍した張遼がその後に昌豨平定に乗り出すわけで、平定は200年の末頃だろうか。さて、劉備の反旗の時期を特定しようとすると面倒くさ…