怠惰な日々

 *blogではありません。日記です。

お昼はおにぎりのみ。なのでローソンの高いやつを張り込んでみる。高いといってもちょっとだけ具が豪華ってだけで、それはおにぎりとして美味いというのとは違う。コンビニのおにぎりなんてそんなもんだ。
午後はめんどくさいパーティー。こんなのの接遇係なんか一生やりたくない。
とはいえ、一応名刺交換なんかも積極的にやったりなんかする。普段食べない食べ物が出ているが、傍に上司もいるしそもそもみっともないのは嫌いだし、ガツガツすることはなくお昼を補う程度。それでいいんだけど、フラストレーションは溜まるから困る。以前3331のパーティーに出たとき、挨拶を尻目にものすごい勢いで食べまくらないと負けるんだなと実感したのを思い出した。あっちの食べ物は豪華ではなかったし、世間体もそんなに気にする必要はなかったけど。
帰り際にやり残しの挨拶を済ませて、少し予定より遅れて退出し即座に複眼へ飛び込んでアンドリュー・チョークのカセットの残り2本を購入。在庫は少ないとは思ってたが2種で各1本と2本の計3本になっており、残っててラッキーだった。
いったん帰宅して荷物を置いて即京都へ。パーティーが別の日ならこんなタイトなスケジュールにはならなかったのだが、まあしょうがない。
眠気対策のために淀屋橋から乗車して出町柳から今出川へ。クレモナというお初の中古屋に寄る。小さな店だが、まあ悪くなさそう。Max de Wardener「Where I am today」500円。
そして同志社大室町キャンパスの寒梅館クローバーホールへ。しかし豪華だな。僕の大学なんて冬場は寒々としてたし、課外活動用の施設なんてほとんどなかった。もちろん多額の授業料が原資になってるわけだけど、まあなんともうらやましい。大学って感じだ。僕の大学はもう高校の延長みたいな設備だったもんな。そしてなにより、学生さんの空気というのは実にいい。未来があってでも今は空洞のような存在同士が集まっているからこそ、こんな独特の空気があるんだろう。数年後に何者かになってしまったら、この空気は失われる。そのことに彼ら自身は気付いてないんだ。かつての僕と同じように。
今日は「無限の色彩論」と題する上映会。こんなイベントも僕の大学にはなかったなあ。偏差値の割には文化のないところだったよ。同志社の学生さんは幸せだ。
小鳥の声とともに流されるBGMを聞いて開演を待つ。
小田香作品2本「2027」「惑星」を上映してから葉山嶺「In Search of Colour」、そして小田香「色彩論 断章」という流れ。最初の2本はおまけのような扱いになる模様。
小田香は3作品ともそれぞれ違ったテーマと作風で、いったいどれが小田香なのか、もちろん全部小田香なのだが、正直なところかなり戸惑う。このあたり、質問してみたらよかったのだが、なにしろ短い時間ではどう言葉にすべきかわからない。小田香作品へのざっくりとした感想としては、トークでも感じたことだが、かなり肉体的・本能的に対象と向き合っている。だから、対象次第で作品の手触りもかなり変わってくるような気がする。
僕が作品として興味深く考えられるのはやはり葉山嶺のほう。終盤になって「人間は結局わかってることしか見えないのだ」といった趣旨のゲーテの言葉が引かれている。これはかなり重要な一節ではないだろうか。それまで延々と自然の風景を映してきた作品だが、それは「美しい自然」としての自らの既知の概念に合致したものを撮っているのに過ぎず、ほんとうの意味での自然の風景そのものではない。自然から選び取り記録する、非常に人間的であり、ある意味認知の限界を示すものになってる。作家が「色彩論をテーマに撮りました」と言うとき、誰もが「色彩論」をなぞるような文脈を想定するが、実は作家が語るように、ここで提示されているのは「色彩論」を下敷きにしたゲーテとの対話である。ぱっと見は単なる美しい風景のようであって、実はこうした仕組みを潜ませたものなのではないだろうか。
少し学生さんの減った寒梅館を後にし底冷えの京都を後にし帰宅。晩ごはんが入手できず困った。