国吉守先生への感謝と祈り


国吉守先生への感謝と祈り

 最近、国吉先生による「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」をクリスチャントゥデイに掲載する機会が与えられうれしかったです。
それは、国吉先生の常にバランスのとれた生き方に基づくものです。しかも、内に燃える思いと、何者にも何事にも打ち消されない一貫性に貫かれたキリスト信仰から記述された、沖縄の教会の戦後史の素描です。国吉先生は、そのただ中を生き抜かれたのです。
 確かに「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」としては、直接的な将来への提言が欠けているように判断されます。しかし、聖書の中で典型的な次世代への提言である申命記全体は、過去の歩みの回顧と将来への展望とが一体となっています。そして過去の歩みはそのただ中を歩んだモーセ自身の生き方と切り離すことのできないものです。
 今回掲載されている講演部分は、まさに沖縄の戦後を舞台に展開されている歴史の回顧です。しかも、申命記の場合と同様、歴史のただ中を歩んだご自身による記述です。
 では、申命記の将来への展望に当たる部分は、国吉先生の講演においてどのように記述されているのでしょうか。一見して直接的な記述が欠けているとの判断もなされる可能性があります。しかし、申命記の場合と同様に、過去の回顧は、単なる歴史の事実を並べているだけではないのです。なぜ、この事実をこのように記述しているのか、その意図・神学が重要であり、鍵です。
申命記を読んでいるとき、そこにはこの事をこのように記したモーセ自身のやむにやまれぬ将来への展望の思いがにじみ出ている事実に気付かされます。そのような気付きを与えられ、真に回顧する者が、将来を展望する認識を自らのものとする訓練を同時に受けることになります。
そのような訓練を受けながら、国吉先生の申命記的精神で記述されたレジメを読むとき、沖縄宣教へのあつき思いを、年を重ねるに従い、ますますたぎらす国吉先生の「次世代宣教を担う牧師たちへの提言」が、静かに伝わってくるのではないでしょうか。
 今回のコラムは、やがて国吉先生が語り、国吉先生の後任・城倉翼牧師がパソコンに口述を打ち込む共作『国吉守牧師自伝―銃口も消し去り得ない恵みの生涯―』の先駆けとなるよう心から期待します。そこには、より徹底的に回顧がなされ、将来への提言が明示されると期待します。その時を待ち望みつつ。