「一人だ」と感じること

 なかなか大きなお題ですので多様なアプローチが可能と思いますが、できるだけ整理して、このテーマへの自分なりの答えをまとめてみたいと思います。


 まず、抽象的な「孤独感」については、これは「かなしさ」と「よろこび」の源泉と理解しています。私がこの世に一人あって<私>でしかありえないと感じさせる「孤独感」は、<私>というものの限界をどうしようもなく知らしめるという意味で、「かなしみ」の源泉でもありますが、しかし、この「かなしみ」はまた、「ある」ということがもたらす「よろこび」でもあると考えます。この次元において「かなしみ」と「よろこび」は一致しているし、この感情を知る人は幸福である、と思います。
 抽象的な「孤独感」については、これにておしまい。


 さて、aberinaさんの質問「「あなたはどんな時に一人(独り)だなぁ、と思いますか」への、私なりの答えです。
a) このように思うことは、なかなか物理的に難しい状況にある。
b) かって、信頼していた人とのコミュニケーションがうまくいかないことでそうした思いを抱いたことがあるが、対処法が身に付いているので、同じような状況になることは、今後しばらくは考えにくい。


 a) については、仕事やら何やらがある、ということと、通信機器の発達によって、何かしらのコミュニケーションは容易にできてしまう、というのがあります(含このブログ)。
 問題はb)ですね。コミュニケーション不全には様々なタイプがありますが、ともあれそうした事態に陥った時は、1)相手の立場に立って、なぜうまくいかないのか理解しようとする 2)それがうまくいかず相手の態度が納得できない場合は、その相手との交流をゼロにするかミニマムにする という方途で、対処するようにしています。
 1)の段階で、相手の立場や姿勢が納得できるものであれば、相手を理解し、コミュニケーションを改善しようと努力しますが、2)の段階に入った場合は、これはもう交流を続けることがストレスになりますので、上に書いたような対処をすることとしています(まあ、そんなことは滅多にないけれど)。冷たいようですが、相手が私に対して孤独感を感じさせる(ないし、酷い誤解をする、私から見れば失礼なことをする、etc.)をする権利があるように ―私はその権利を尊重します― 私が相手とのコミュニケーションを断ち切る権利もあると考えています。利己的に思われるかもしれませんが(というか、現に利己的なのですが)、私にとっては、自分の精神の安定とそれに基づく生活のほうが、微妙な問題を孕んだ交流よりはるかに重要です。未練を感じるときもなくはないですが、理詰めで考えていくと、大体自分を納得させることができます。
 こうやってまとめると、努力の甲斐あって(?)「孤独感」を感じることはあまりないようです。ただ、上で書いた「抽象的な」孤独感を感じるために、あえてある種の音楽や小説を読むことはありますが、これは、aberinaさんがおっしゃっている問題とはずれていくように思います。


 以下、蛇足かもしれませんが付け加えます。
 かつて孤独感に苦しんだときは、こけぐまさんが書いていることと同じ意味でかはわかりませんが、「自分から意識をそらす」ように様々な活動を試してみました。比較的うまくいったのは、a) 古本屋めぐり(+帰りに焼鳥屋で一人で一杯) b) 軽い喜劇映画を観る c) 厚めのノンフィクションを読む(歴史小説も可) といったあたりです。適度に知的な能力を要求し、感情もそこはかとなく刺激するが、決して強すぎない、というのが良いのでしょうか。料理なんかも良いのかもしれません。
 あと、私は15年ほど前に数年間、2〜3ヶ月の単位山籠もりを何度かしました。さすがにいざというときのために、携帯電話だけは持っていましたが、特に話す相手もおらず、一人を満喫していました。とはいえ、数日に一度は買い物で山を降りて人と簡単な会話をかわすわけですが、それが妙に心に沁みたことはよく覚えています。人気(ひとけ)を感じることは結構大切なのだな、とそのとき痛感しました。
なお、2011年9月11日は、まさに山籠もりの真っ最中でしたが、全く人気の感じられない山小屋の映りの悪いテレヴィで、くり返しビルの崩壊を観るというのには、さすがに参りました。やめればよいのですが、やめられないのですよね。余談であります。

M&M's