第42章及び43章(完)

第42章

十一月二十四日午後六時、神谷はクオピオ警察署において担当の刑事を前に、ハッカネンが自殺するに至った状況を淡々とした口調で語っていた。
刑事の書いた調書に署名を済ませ、神谷が署を出たのは七時間も後であった。
その間、ハッカネンの死が神谷の言うとおり自殺であったことは確認されたが、ハッカネンがタリアら三人の人間を殺害していた事実及びアドルフ・グレーペがクオピオ事件の犯人であったことなどは今後の捜査を待たねばならなかった。
人気のとだえた雪の吹きすさぶ深夜の町を、神谷は重い足取りでいつまでも歩き続けた。
〈一連の事件に関するすべての詳細は警察に話した。
後は警察でやってくれるだろう。
事件は解決した…。
でも、タリア。
お前は、お前は、もう二度と戻って来やしないんだ。
タリア、俺のタリアは戻って…〉


十一月二十五日午後一時、神谷は予定どおりモスクワ行きの列車に乗った。
警察の申し出を、事件が完全に究明されるまであとしばらくはクオピオに滞在してくれるようにとの依頼をそっと無視して、神谷は帰国の途についた。
列車が動き始めた時、神谷は自身の名を呼ぶ声に窓から外を見た。
雪の降りしきるホームを、二人の人間が、一人は片足をかすかにひきずり、もう一人はそれを助け、懸命に列車を追って駆けて来る姿が神谷の目に映った。
「アキー! メイユー!」
神谷は思わず、雪のこびりついた窓を叩いて叫んでいた。
やがて、二人の姿が視界から消えると、神谷は座席に身を投げ出した。
汽車は白樺林の中をロシアとの国境に向け、走っていた。
〈さらばスオミよ。愛するタリアよ!〉


第43章


神谷がモスクワへ向っている頃、バンヘルデン警部以下アムステルダム警察本部殺人課特別班員は、ユトレヒト市西端にある古ぼけたアパートの一室を捜索していた。
娼婦リサの証言からユトレヒトの自動車修理工場を丹念に調べ尽くし、ついに連続殺人犯の居場所をつきとめたのだった。
部屋に残っていた指紋は、ルノーから検出された指紋の一つと同一だった。
が、しかし、犯人はすでに部屋を去っていた。
そればかりか六ヵ月近くもの間、犯人の姿を見た者はアパートの住人の中に一人としていなかった。
犯人の追跡はすぐになされた。
指名手配の網はオランダ全域はいうに及ばず、近隣諸国にもなされた。
後は時間が解決してくれるはずであった。


アムステルダム警察本部内の廊下を行きかう慌ただしい足音を耳にしながら、バンヘルデン警部は犯人の手配写真に見入っていた。
金髪の巻毛、うす青い瞳。
甘く端正な顔立ち。
写真に写った顔をじっと見ていると、犯人の背負った暗い過去があぶり出されてくるような気がした。


警部は席をたち、窓辺に体を寄せ、窓を開けた。
鉛色の雲がゆっくり空を動いていく。
警部はそれを見ながらふっーとため息をついた。
犯罪捜査、それはたまらなく気の滅入る仕事だ。
人間が人間を裁かなければならないなんて。
クオピオ警察署からバンヘルデン警部に国際電話がかかってきたのはその日の夕刻だった。
「クオピオ?」
警部は受話器に向ってそうつぶやき、同時に、犯人の住んでいた部屋の壁に書かれていた乱雑な文字を思い浮かべていた。
そこにはこう記されていた。
『KUOPIO』


第41章その5

(第41章その5)


神谷は身をこわばらせ、両膝に指をくい込ませた。
撃たれる、そう思うと、自分が何の防御もせずにここへ来てしまったことが悔やまれてならなかった。
危険を考えるよりも復讐することで頭がいっぱいになり、みさかいもなく敵地へ乗り込んで来た自分の馬鹿さかげんを自嘲した。
だが、ハッカネンは静かに首を振った。


「私がなぜアドルフを殺したのか、君の言うようなことでアドルフを殺したのではない。それは、私がアドルフを船の中で見かけたのは、まったくの偶然だった。
私の方からアドルフに近づいていった。
私たちは話をした。
フィン語とドイツ語を混じえて話しているうちに、アドルフは私の肘の傷跡に気づき私が彼の父親であることを知ってしまった。
彼はそのことを私に確かめ、私はそれを否定しなかった。
私たちはお互いの過去を埋め合うかのように、何時間も語り合った。
クオピオ事件については、私もアドルフも触れようとはしなかった。
しかし、それ以上に恐ろしいことを私は、アドルフから聞いてしまった。
信じられなかったが、アドルフはそれを私に喋った。
彼がそれを話したのは、ふともらした言葉がきっかけだった。
私はアドルフを問い詰めた。
そして、アドルフは、あの子は父親の私にすべてを打ち明けた…」


ハッカネンはがっくりと肩を落とし、銃口をわずかに下へ向けた。
それから急に言葉をつまらせ、苦しみもがくような声で言った。
「アドルフを、アドルフを殺した理由は、私の口からはとても言えない」
ハッカネンは潤んだ瞳を宙に漂わせた。
遠い昔を、ドライアイヒへ従軍していた時のことを思い出しているかのようであった。
神谷は身を起こしかけた。
ハッカネンの銃から身を守るには今しかない。
今、ハッカネンに攻撃をしかけなければ、もうチャンスはない。
相手との距離は二メートル余り。
机を飛び越えて、ハッカネンに体当たりする以外に助かる道はない。


足を動かそうとしたその瞬間、銃口が神谷の胸を狙った。
安全装置の外される音が室内に響く。
〈やられる!〉
神谷は全身をこわばらせ、眼を閉じた。
一瞬後、鋭い銃声が鳴った。
一秒、二秒、神谷は恐る恐る眼を開けた。
体に痛みはなかった。
〈生きてる!〉
だが、一発の銃声は確かに耳に聞こえた。
神谷はハッカネンの方を見た。
机の上は赤い血で染まっていた。
血はハッカネンの右のこめかみから流れ出ていた。


(第42章へ)

第41章その4

(第41章その4)


ハッカネンは顔色を変えるふうもなく、自分の名を出されたことに反発もせず、沈黙を守っていた。
まるで固い大きな岩のようだった。
そんなハッカネンを、神谷は冷めた眼でじっと見つめていた。
神谷の瞳にはもはや憎悪の色は消え、やりきれない寂しさだけが漂っていた。
怒りよりも、空しい悲しみが神谷の心に拡がっていた。
ハッカネンの背後の窓を通して、雪が降り始めてきたのが見える。
「アントンが死亡した日、あなたはヘルシンキにいた、そしてタリアが殺された日にはアムステルダムにいた。
私は、あなたが彼らを殺した証拠を探した。
しかし、結果は無駄だった。
どこにも証拠はなかった。
だが、アドルフ・グレーペの場合は違った。
あなたは重大な過失を犯していた。


彼は麻薬を飲んで誤って海に落ちたと考えられている。
しかし、彼をよく知る者は彼が麻薬の売人ではあっても、麻薬を飲んだりはしないと証言している。となると、誰かが彼に麻薬を飲ませ海に落としたと考えられる。
彼が死の直前まで乗っていた船に、彼と一緒にいた人物を見たと証言する者が二人いた。
彼らが目撃した人物は、あなただった。
あなたがアドルフを殺したのは、あなた自身の身を守るためだった。
これだけの証拠をそろえれば、あなたをアドルフ殺しの罪で告発することは可能でしょう。あなたはアドルフ殺しを否定できないはずです。
実の父親が息子と一緒に船内にいたのに、息子の姿が見えなくてどうして心配もせず船を降りる父親がいるでしょうか」
神谷は寂し気なうつろな瞳を窓の外に向けた。


空は暗く、雪は風に舞い、激しく窓を叩いている。
「なぜ、タリアを殺したのか。彼女を殺す必要があったのでしょうか」
ハッカネンの方を見ず窓を見たまま、神谷は内心の空しさを言葉にした。
一人ごとのような、つぶやいているような声だった。
ハッカネンは依然として口を開こうとしなかった。
神谷は暗い外に目を向けたまま、ハッカネンが喋るのを待った。
いつまでも、ハッカネンが喋るまで何時間でも待っているつもりだった。
事件について調べ上げたことはすべて話した。
あとは、ハッカネンがどう反応するかだけだった。
五分が過ぎ、十分が過ぎ、やがて二十分も経とうという時になってはじめて、ハッカネンの唇が動いた。


押し殺した低く重い声がハッカネンの口からもれた。
神谷には意外なことだったが、ハッカネンは自らの罪を告白しようというのだ。
「タリア・コッコネンそしてアントン・コッコネンを殺したのは、君の推察どおり、この私だ。アドルフを殺したのも私だ」
ハッカネンの言葉がとぎれた。
彼は組んでいる両手を固く握り合わせた。
鋭い視線がその両手の上に注がれている。
「タリア・コッコネンを殺さねばならなかったのは、彼女が手掛かりをつかんだため、ヨハンセンがフントネンを指さした意味を見つけたためだった。
彼女はそれを私に話してしまった…」


ハッカネンの告白に、もう少しで神谷は驚きの声をあげるところだった。
体中からねばっこい汗が噴き出し、力が抜けていくような気がした。
ハッカネンの両手がコートのポケットにすべり込むのに気づく余裕はなかった。
神谷は頭を後ろにのけぞらし、両眼を閉じた。
〈何てことだ。タリアはせっかくつかんだ手掛かりを、よりによってハッカネンに話してしまっただなんて…〉
再び顔を正面に向けた時、神谷は思わず体を後ろに引いた。
ハッカネンの手に銃が握られ、その銃口は神谷の胸に向けられているのだ。
動けなかった。
「ミスター・カミヤ」
ハッカネンは、しゃがれた低く沈うつな声で神谷に呼びかけた。


(第41章その5へ)

第41章その3

(第41章その3)


神谷は一瞬、ハッカネンから眼をそらし、宙をみつめた。
タリアを殺した犯人をついに追いつめた。
でも、それだけのことじゃないか。
タリアは、彼女は、もう戻ってきやしないんだ。
神谷は唇をかみ、再び視線をハッカネンに戻した。
神谷が話し始めてからずっと、ハッカネンは身動きもせず、相手が喋るにまかせている。


「彼らはクオピオ事件の何かを探り出した。
そのために殺害された。
そこから出発して、私は事件に何か手掛かりが残っていると考えた…。
手掛かりはあった。
合鍵。
ヨハンセン氏の住んでいた部屋の前住者が鍵を失くしたことがあったのです。
その時に、ヨハンセン氏を殺害した犯人はその鍵を拾い、合鍵を作っておいてから警察に届けた。
アントンはそこに手掛かりを見つけようとした。
彼は警察の遺失物記録を調べた。
だが、鍵の遺失物記録が書かれているはずの問題の頁は消えていた。アントンはここまで事件を追ってきたところで事故にあった。


じゃ、タリアはどうだったか。
彼女は合鍵の件は探ってはいなかった。
彼女はヨハンセン氏を病院に運んだ医師の話を聞き、そこからあることに思い当たった。
ヨハンセン氏はフントネン刑事を指さして死に絶えた。
フントネンを調べるが何も出てこない。
でてこなくて当然だった。
ヨハンセンがフントネンを指さしたのは犯人がドイツ人であることを告げるためだったからです。
彼女はここまで探ったところでアムステルダムで殺された。


私は彼らがたどった跡をたどり、彼らと同じところで行き詰まってしまった。
しかし、闇の中を手探りで進むうち、ヨハンセン事件の容疑者の一人からドイツ人の流れ者が捕らえられていたことを聞き知った。
その男がクオピオへ来たのは大戦時ドライアイヒという町へ従軍していた父親を探すためだった。
男の名はアドルフ・グレーペ。
私はその男を犯人と信じて追った。
しかし、彼はストックホルムで死んでいた。
これで事件は手の届かぬところへ行ってしまった。犯人が死んだ以上どうしようもないと思ったからです。


だが、私は間違いを犯していた。
アドルフがアントンとタリアを殺したものと考えていたが、クオピオにいなかったアドルフにタリアたちの動きがわかるわけがない。
そのことに気づくと、私は真犯人が誰かと考えた。
タリアたちを殺す必要があった人物、それはアドルフの父親に他ならない。
そう考えると同時に、ファイルから問題の頁が消えた謎が解けた。
アドルフの父親はクオピオ警察の警官だったからです。
そして、その人物というのは署長のハッカネン、あなただった」
神谷は、この場に存在しない誰か他の人物の名を口にするかのように冷静に、その名を口にした。


(第41章その4へ)

第41章その2

(第41章その2)


「どうぞ」
ハッカネンは、その四角ばっためったに物に動じることのないと思われる厳しい顔にうっすらと笑みさえ浮かべ、神谷を部屋へ通した。
神谷は、ハッカネンの落ち着き払った背に視線をすえ、彼の後について中へ入っていった。
デコラ張りの大きい事務用デスクとその前に肘掛け椅子が二脚。
それ以外にはこれといった家具はない。
右側にドアが見えるが、向こう側は続き部屋で寝室になっているようだ。
神谷を椅子に座らせると、ハッカネンは神谷と向かい合うような形で、机の向こう側に腰を降ろした。
「クオピオ事件のことで話があると?…」
ハッカネンが静かに語りかけるような口調で、口を切った。
穏やかな話し振りには感情の乱れは表れていなかったが、青い両眼は鋭く神谷に向けられていた。


「アドルフ・グレーペをご存じですね」
相手の眼を見返しながら、神谷はいきなり核心に触れた。
ここへ来る前は、もっと遠回しな言い方で話を始め、徐々に核心に触れていこうと思っていたのだったが、ハッカネンを眼の前にして、神谷の口から出た言葉は自身でも意外だった。
ハッカネンは眉一つ動かさず、神谷の言葉に何ら反応を示さなかった
神谷は続けた。
「クオピオ事件の容疑者としていったんは捕らえられた男です。しかし、すぐに釈放されました。なぜだかわかりますか」
そこで言葉をきり、神谷は肘掛けを握っている手に力を込めた。
ハッカネンは口を開こうとしない。


「アドルフ・グレーペのことを話す前に、私がこの事件に足を踏み入れた、いや、踏み入れざるをえなかった理由を説明しましょう」
ハッカネンとの対決、それはこれまでの自身の怒りが頂点に達する時だ。
そう思っていた神谷であったが、現実にその場に直面するとなぜか不思議と冷静になっていた。
恋人を殺害した相手を眼の前にして、こんなに落ち着いていられる自分が信じられないくらいだった。
「タリア・コッコネン。彼女は私の婚約者だった。九月には結婚する予定だった。その彼女が、六月十一日、アムステルダムで殺された」
ハッカネンは不安な表情を一瞬たりとも見せないでいる。
神谷の眼から視線をそらすことなく、黙って神谷の話を聞いている。


「彼女は何者かに殺された。何者か…。
それは警察が発表している連続殺人犯なんかではない。
彼女を殺した人物は、彼女が連続殺人犯に殺されたと見せかけるためにあの事件を利用したのです…。
彼女の父親、アントン・コッコネンは交通事故で死亡した。
彼女はそこに疑問を抱いた。
なぜなら、アントンはあのような事故を起こす人間ではなかったから。
あの事故は、走行中のタイヤを銃で撃ち抜かれたために起きたものです。
それができるのは腕のいい、実に腕のいい射撃の名手だけです。
彼女はアントンの死に疑問を持ったと同時に、殺されねばならなかった理由を探り始めた。
それは、結果的には彼女が生命を失う発端となった…。


彼女はアントンの殺された理由を知った。
アントンは迷宮入りとなっていたクオピオ事件すなわちヨハンセン氏殺害事件の謎を解こうとして殺された。
アントンは恐らく、事件の全容をあと一歩のところまで探り出したのだろう。
そのため、彼は殺された。
クオピオ事件の真相が暴かれるのを防ぐために何者かがなした仕業だった。
そして、タリアも同じ理由で殺された。
彼女も事件の真相に近づいたからです…」


(第41章その3へ)

第41章その1

第41章その1


十一月二十四日午後二時。
神谷はヘルシンキ空港に着くとすぐ、クオピオ行きの国内線に乗り換えた。
神谷は、自らつかんだ決め手をハッカネンにぶつける決心でいた。
〈タリア。俺は、お前の命を奪った犯人を俺自身の手で追い込む。奴は、ハッカネンは許せない。奴の口から、お前を殺害した事実を白状させてやる!〉
黒い瞳に復讐の炎を燃えあがらせ、神谷は窓外に拡がる灰色の雲を見つめていた。
無意識のうちにも体が震え、指先は両脚に深く食い込んでいた。
緊張で、口の中がからからになっていた。
機内の神谷は、ハッカネンと対決することは彼自身の生命をも奪われる危険があるなどとは考えもしていなかった。
いかにしてハッカネンを白状させるか、そのことで頭の中はいっぱいだった。
自身の生命を心配するよりも、犯人を追い詰めることしか心になかった。


雪に埋もれたクオピオ空港のロビーから、神谷は警察署へ電話を入れた。ハッカネンを呼び出した。
「クオピオ事件についてあなたに話したいことがある。空港まで来てもらえますか」
神谷の声はうわずった震え声になっていた。
ハッカネンはすぐには答えなかった。
数秒の沈黙の後、重く低い声が神谷の耳に伝わってきた。
「四時半まで待つというのなら会ってもよいが…。いいだろう。それじゃ、キヴィコホテルのロビーで待っていていただきたい」


人のまばらなローカル空港のロビーで神谷が落ち着かなげに時間を待っているころ、クオピオ警察署署長室ではハッカネンが固く組んだ両手を机の上に置き、考えにひたっていた。
やがて、壁時計が四時を告げると、ハッカネンは紺の制服を私服に着替え、その上に厚いウール地のコートを着込んだ。
そして、机の抽出から銃を取り出し、それをコートの右ポケットに入れた。
約束の時間より五分早く、神谷はキヴィコホテルに着いた。
これからいよいよハッカネンと対決するのだと思うと、心臓の鼓動が早鐘を打つように高まった。
入口の回転ドアに目をやり、人が入ってくるたびに、どきっとして身体をこわばらせた。


時計の針が四時半を指した時、フロントで電話が鳴った。
フロントマンが電話に応対する声が神谷の耳にもかすかに聞こえてくる。
やがて、受話器が置かれ、フロントマンの足音が近づいてくる。
「失礼ですが、あなたはミスター・カミヤ?」
神谷が相手の顔をじっと見ながらうなずくと、
「四階の四〇六号室でハッカネン様があなたをお待ちです」
フロントマンは言うと、神谷をエレベーターのある場所へ連れて行った。
「四〇六号室でございます。降りて左側の通路の四番目の部屋です」
エレベーターは四階で止まり、神谷は降りた。


ハッカネンの部屋は、すぐにわかった。ドアの前までくると、神谷はそこでしばらく立ち止まった。
コートのポケットから両手を出し、こぶしをぎゅっと固め、唇に当てた。
大きく三度深呼吸した。胸が今にも破裂しそうなほど早鐘をうっている。
右手の甲をドアに向ける。一瞬ためらったが、心を決めたように強くノックした。
数秒後、ドアは静かに内側にひかれた。


(第41章その2へ)

第40章その3

(第40章その3)


ストックホルム着は九十分後だった。
ストックホルム・セントラル、フレイガタン通りのグスタフホテルへ」
午前九時二十分、神谷はホテルの玄関前でタクシーを降りた。
フロントでオルガソンの部屋を聞く。
七六六号室。
ブザーを神経質に何度も押す。
中年の男がドアのすき間に眠そうな顔をのぞかせる。
「ミスター・オルガソン?」
「イエス
男はとまどいながらうなずいた。


「六月十二日のことですが、あなたはコペンハーゲンストックホルム間の船に乗っておられましたね? 嵐のあった日です。
ええ、海が大時化だった日です。
その時、この二人をあなたのカウンターで見かけなかったですか」
神谷は二枚の写真をオルガソンの手に押しつけた。
一枚はハッカネンの、もう一枚はアドルフの写っている写真だった。
オルガソンは記憶を呼びさますように交互に写真を見比べていたが、
「たしかに見たよ。でも、こっちの方はもっと年をとっていたと思うが。三十は十分に越えてたんじゃなかったかな」


神谷は、アドルフの写真が十年以上も前に撮られたものであることを説明した。
いずれにせよ、バーテンダーはアドルフとハッカネンが船の中で一緒にいたと証言している。
バーテンダーが彼らの姿を覚えていたのは、六月十二日が嵐であり、アドルフとハッカネンがフィン語とドイツ語を互いに混じえて喋っていたからであった。
もし彼らがドイツ語だけで喋っていたなら、恐らくバーテンダーの記憶にとまっていなかったであろう。
「妹がね、フィン人と結婚してるんだ。だから、フィン人には特に親近感がわくんだよ。この二人のことはよく覚えている」


トラック運転手とバーテンダー
少なくとも二人の人間が、アドルフとハッカネンが船の中で一緒にいた姿を目撃している。
証人としてはこれで十分だ。
アドルフが海に落ちたのは死亡時刻から逆算して、それが船上からであったことも証明できる。
あとは、アドルフが海に落ちたのは事故ではなく、誰かに落とされたものであることを証明すればよい。
これは、アドルフが自らの意志で麻薬を飲んだのではないことを実証できればよい。
アドルフをよく知っている連中の証言でそれは実証できるだろう。
これら三つの事実をもとに、ハッカネンのアドルフ殺しを証明することができる。
これだけ決め手がそろえば、アドルフ殺しの容疑でハッカネンを訴えられる。
そして、アドルフ殺しからタリアを殺害した一件まで、すべて泥を吐かせてやる!
くそっ、ハッカネン、お前の犯した罪は俺がこの手で必ず償わさせてやる!


(第41章へ)