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随筆 | |
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向学心をもって積極的に生きる生き方と、そうでもない生き方の、どちらをもひとは選べる。どちらを選んだからすなわちしあわせというようなものでもないと思う。べつに情熱がないので前者の志がない。べつに気力がないわけではないので、何かを学びたい、何かをやりたいと思うことがある。それを実際にやるかどうかというのは、情熱がないわけだから、ほかの何かに頼る。いわゆる環境というものに、だし、けれど、言い換えるなら、ふつう、自然、あたりまえに。ある種の生き方に特別な価値があるというのはどうも素直にうなづけない。ふつうであることは、価値判断の結果ではなくて、価値基準なのだと解釈する。
あるところで、若いひとたちが勉学に励んでいるのを拝見すると尊敬もうしあげるが、そのところにおいては、彼らの姿勢はあたりまえのものだ。彼らがどう思っているかは知らないが、僕は、それはあたりまえのことだと思う。勉学をきらうことはあたりまえだし、勉学に励むことはあたりまえのことだと思う。あたりまえとか、ふつうとか、自然というのは、重ね合わせてぜんぜん違っていたとして、矛盾とはいわない。
ひとによっては、ふつうを乗り越えようとしたり、限界を感じてふつうを変えたり、つまりは環境を乗り換えたり、つくるかえたりを試みるだろう。それを情熱とよぶ。情熱はないんだけど、すぐ近くにべつなふつうがあるのなら、ちょっとした気のゆるみで☆乗り換えてしまうならそれもよい。
基準と基準を比較して、どちらがどちらよりすごい、というのは奇妙に感じるのですね。基準を移し替えるのは、難しいかもしれない。わからないけれど、いろんなふつうがあるのはよいことだ。違いには、すごい、と思ってしまうものだ。しかし、すごくない、それが基準なのだと考えると、余計によいことに思える。
ああ、彼らが、自然に振る舞っていれば、どんなに既存の基準とかけ離れた基準であっても、僕はふつうであると感じるし、彼らに情熱は必要ないと推測する。べつにもっていてもかまわない。
「勉学に励むのはあたりまえ」。こんなに聞き心地のよい言葉はないし、「勉学をきらうのはあたりまえ」。こんなに聞き心地のよい言葉はないね。
ただ、どの自然なありかたに美しさを感じるか、ということかもしれない。どれだけ自然であるか、ということがその美しさかもしれない。ある文脈であたりまえとされることが、またある文脈で困難であるのはあたりまえのことだ。このあたりまえがいい、あのあたりまえが好き。そういう穏やかなきもちを情熱とよぶと、ほっとする。
イベント, 職業, rubykaigi2010 | |
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2010年8月27-29日日本Ruby会議2010に参加しました。
1日目にrake:money 拡大版〜Rubyエンジニアと企業の幸せな関係〜という企画に参加しました。
簡単なメモは@kiwofusiのTwitterログをご覧ください。
海外では優秀な新卒に高額な給料が支払われることに対して、日本では差がつかないことが議論されていました。海外ではエンジニアがサービスの企画までやること、日本でもDeNA、GREE、ドワンゴが新卒にお金を出していること、即戦力となる新卒はめったいいないこと、などの意見が挙げられました。
よいサービスをはやくやるためにはエンジニアが企画もやって、サービスの収益はエンジニアに還元されて、したがって優秀なエンジニアは相応の収入を得られるべきだ、という方向性を感じました。
また、今後活躍できるエンジニア像として、特定の技術を極めた職人的エンジニアと、企画から開発までできるオールラウンドなエンジニアに二分化され、そして職人的エンジニアになるのは圧倒的に難しい、という意見もありました。
雑多に。
(素朴で幼稚な疑問)ある仕事をどれくらいしたとき、何円の報酬を得るのが適切である、ということをどうやって決めるのか? 現実的には何円かというのは市場のバランスで決まるのだろうけれど、エンジニアの生み出した価値とか、サービスがユーザに提供する価値というのを、どうやって比較したり数値化したりするんだろう。自分が得るべき給料というのを、どうやって自分で考えればよいだろうか。どうやってその感覚をつかめばよいのだろうか(ただ仕事を積み重ねて「相場」をつかめばいいのか?)。
(会場で質問したかったこと)こういう議論をするひと(このとき会場にいたひと)は、マネジメントにも携わっているひとが多いと思うが、部下の評価・給料を決めるときに悩むことは何か。
(企画に対する意見)金に興味のないエンジニア、あるいは逆に、現状の収入・待遇に不満をもつエンジニアを議論に交えてほしかった(もちろん参加者が口を挟めばよいだけなのだけれど)。というのは、やはり議論の方向性が奇妙に一直線に感じたから。オールラウンドなエンジニアに高給を、という(僕が単純化しすぎなだけかも)。
(想像)金に興味のないエンジニアとして、たとえばこういのだ。「企画をやりたくない、自分にできる一定範囲の仕事をこなして生活に困らない程度の報酬がほしい」。「サービスの成功・失敗が報酬に関係してほしくない。たとえよいソフトウェアをつくっても評価されないことがあるなんて冗談じゃない」。「企画も金も好きなひとが考えればよい。自分には関係ない、好きじゃない」。
(「エンジニア」という概念について)エンジニアリングとは何か、というのは調べれば見つかるのだろうけれど、個人的な感覚からいくと、「かたちのあるもので問題解決すること」というところだと思う。サービスで一山当てようというのは、もちろんそのプロセスの一部はエンジニアリングなのだろうけれど、それらすべてをやるロールをエンジニアとよぶこと、名前を遣い回すことに違和感を感じる。かといってナントカクリエイターとかいうのも……。
(「はたらきたい」と「はたらきたくない」)はたらきたいひとは能力を身につけてよい仕事をして高い報酬を得る、そしてエンジニアを目指すひとはそうあるべきだと、というのはまあ美しいは美しいんだろうけれど、そうでないひとを考慮から外すのがまっとうであるかというのは、信条が違えば水掛け論なのでまともには議論できないとは思うけれど、僕は「はたらきたい」という思いも「はたらきたくない」という思いも、両方もっているから、どちらかに絞って、美しい人材像にまっすぐ向かおうという気分にはなかなかなれない。
(Twitterから転載)サービスの成果が報酬として返ってくるっていうのはそれはいいと思うんだけど、売り上げだるアイデアをいっこもつくれなかったらぜんぜん評価してあげないってことになるのかな? 期待と不安の両面を気にしてしまう。
(Twitterから転載)企画におけるエンジニアの裁量が大きくなって、過渡期みたいなところで、成功すれば企画のおかげ、失敗したらエンジニアのせい、みたいな不当な責任の押しつけを受けてしまうことはないだろうか。
(Twitterから転載)「エンジニアが企画も」っていうのは、どうも、美しい言い回しには僕は感じられない。やりたいひとはやればいいし、そのひとの視点、能力が貴重には違いないんだろうけれど。だってサービスってチームがつくるものでしょ。チームの組み方を工夫すれば。
(Twitterから転載)「チームの工夫では補えない個人の複合的な能力から得られる成果」っていうものはたぶんあろうんだろうけれど、じゃあ、それは何か、またつぶせないのか。
(↑について)あるべき人材像の議論っていうのは、人間には素質とかやる気がそもそもあるものだ、あるいはあるひとはこうあるべきだ、というもので、美しいけれど、気分がのらない、かといって無能ではない人間はわんさかで、そういうひとたちもしあわせに生きて、価値を生み出せるような世の中のほうが、僕は、ハッピーだと思う。だから、個人の欠点というのは、可能である限り、システム、文化、習慣、コミュニケーションによって補うべきであると思う。どんなに手を尽くしても解決できないなら自分自身が変わるしかないけれど。まあこういう話は、オレが今後10年間でできる限り稼ぎたい、というときには考えても割に合わないことで、信条の違いによって議論が成り立たない議題かもしれない。実際、「オレが優秀だったら関係ない」、小さい(?)組織なら「オレらが優秀だったら関係ない」もんね。
(そもそも)金と、価値と、エンジニアリングと、ビジネスの関係ってなんだろう。
(認識)恥を忍んでいってしまうと、僕はビジネスの成功・失敗をギャンブルのようなものだと思っているし、譲歩してゲームのようなものだと認識したとして、それがおもしろいゲームであると興味をもっていないことが、このような話題に対して気丈でない姿勢をもつ理由だと思う。しかしこの認識は体験によって簡単に変化するだろうという予想もあって、はたらきたいというきもちも手放してはいない。だから、この種の議論には、経験を積んだうえで、なお、金に興味がないエンジニアに参加してほしい。
エンジニアはサービスの企画に参加すべきか。参加したほうがよいサービスをつくれるか。
企画ができないエンジニアと企画ができる人材によるチームと、企画ができるエンジニアによるチームでは、プロセスや成果物にどのような違いが出るか。
サービスの成功・失敗はどのくらいエンジニアの収入に影響すべきか。
ほどほどにはたらいて、ほどほどの収入を得たい、と考えるエンジニアを、企業はどのように扱えるか、扱うべきか。
職人型エンジニアはもう辞めよう!これからは、経営者型エンジニアの時代。|ホットココア社長日記
この記事がおもしろかった。「自分が生み出せる価値」とか、「価値に見合った報酬の程度」を考える前に、オレはこれだけの金がほしい、というところから出発すると、悩みのいくつかは解消するかもしれない。
随筆 | |
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問題の分析とか問題解決の計画づくりと違って、問題発見のモチベーションとか問題を価値を重みづけするための、問題意識というものは、才能というかセンスというか、あるいは趣味、つまりはテクニックに落とせないものだと思っている一方、問題意識をもてないこと、どうでもいい、と感じることも、ひとに固有の感覚なのだろうと、僕は、○○○○○○問題に関心をもてないので思った。どうでもいい、問題ではない、関係ない、いいや、もし自分が○○○○○○○たら、という想像はできるけれど、なぜかそれが問題と感じない。なぜなら、ということを考えると、それは当然問題と理解できるから、考えても、どうでもいい理由というのは出てこない。あえて挙げるとすれば、○○を根拠に事実を判断することの稚拙さを受け入れたくない、という理想から目を背けられないという自己分析ができる。
じゃあどこまでどうでもいいと感じるかというと、それはめしを食えないともちろんいけないけれど、かといって○○○○○○○○○○という問題もどうでもいいと思うと思った。センスとしてはどうでもいい。でもさすがにひととして問題だと、考えるとそう至る。じゃあそれは理性かというと、それほど優先度というか直感度が高くない、しかし感情だきっと。
○○○○○○○○○○○○○○○。昔からそうだったかはわからないけれど、自分はそういう人間ではないと思っていたと思う。でも気分にも何層もあってどこまでが無意識とかって区別できるかは知らないけれどとにかく気分は塗り固められたもので表面というか一番奥だけ見ていても、あるいは見ないですらいると判断が鈍る。
なぜ当たり前によいとされることがよいことであるかを考えることは少なくとも僕にとって大切なことであると考えるように、どうでもいいと思うことがなぜどうでもよいのかを考えること大切だ。それは怠けないためにとかではなくて、それはそれは人間がそもそも生産性を高めて生きるものではないと思うし、また目標的に仮定することもどうでもいいし、ただ気分を理解することがおもしろいからだ。これを中途半端にやめるのは問題であると感じるのね。
説明ではなくて、モニタリング。意味を理解できないと文句をいわれてもどうでもええ。でもモニタリングできないことは問題だ、自分にとって。
「もしこのとき」とか「もし自分が」とかいうときの、どうでもいいという気分に則ったときの気分を、書くなら、彼はそんなことをしない、それは推定ではなくて、した彼を認識したくないということだし、これは気分を少し掘り起こせば簡単に否定できるけれど、そもそも○○を行為の根拠にすることがありえないと感じる。仮に被害、つまりは時間とか名誉が失われるとしても、これも掘り起こせばりありてぃが出るけれども、気分でいえば、不当な理由から被った問題に対して、強い問題意識はもてない。現実では、そのことを説明できないと現実は変わらない。そのときの現実は、違った気分があるのだろうと気づくのは、簡単だ。本当に、問題意識はころころと変わるのだろうか、たった現実が変われば、問題意識は変わるために、気分は信用ならないのか。さて、それは、どうでもよいのか。
イベント | |
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オブジェクト倶楽部2010夏イベントに参加してきました。#obloveのログを転載しました。
個々の発表はどれも興味深くてどう取り上げたらよいのかわからないほどなので、雑談などで出た話題を思い出しつつ、思ったことを奔放に書いてみようと思います。(ちょっとだけ触れておくと、加納さんの朝会ファシリテータのお話とか、nsgcさんのアジャイル導入のお話は、手探り感が身近に感じられて好きでした)
(以下、思い込みが激しい文章なので、不愉快な点があったら読むのをやめていただけるとありがたいです)
学生でかつ遠くから参加したことを伝えるとみなさんに驚かれました。学生は無料だったのにあまり参加者はいらっしゃらなかったのでしょうか。なぜオブラブかというと、こういうところに学生ってあまりいなさそうだなあっていうあまのじゃくな気分のせいかもしれません。技術系のイベントだとプログラミングがすごいできる学生とかもいそうだけど、ギークとかそういうのは個人的に怖いですというか、技術にそこまで情熱がありません。でもデキナイっていうわけでもないし、IT業界以外ではたらく自分なんて想像できないので、いわゆるSIerみたいな、ふつうのIT企業、仕事に、ばくぜんと興味があります。じゃあそういうもの、たとえば受託開発ってどういう仕事なの、どんなひとが業界で活躍しているの、ということを知りたいとしたら、何をしたらいいんでしょうか。そういうイベント、コミュニティってあんまり見つからない、見つかりにくい。ギークじゃない技術者の集まりにいきたい(もちろんギーク並の技術力はあるにこしたことないけど)。となると僕はオブラブしか知らないのですね。
IT業界において技術力を発揮するクリエイティブで楽しい仕事=ベンチャー、ウェブ、フリーあるいは研究開発みたいなイメージというのがたぶんあって、SE、SIer、受託開発、プロマネなどの言葉は、ブラックとか(技術的に)つまらないというイメージと絡んで就活生のあたまのなかに入ってしまっている、たぶん。そんなわけあるの? ひとがほしいものつくってあげて、というかいっしょにつくって、よろこんでもらえる仕事が、やりがないがないわけないじゃない? という無根拠な希望、期待があって、こういう業界に興味をもっています。
ふつうの就活をしたくないんです、という雑談をした。ふつうの就活というのは、持ち駒、第一志望群、滑り止め、などの高度な概念を駆使して戦略を立てたり、乗車率300%で駆け込み乗車はおやめくださいなノリで繰り広げられる説明会の椅子とりゲームに参加する、そういう就活。つまりふつうの就活というか異常な就活だけど、これが世間一般の就活という意味ではふつうの就活だ。って、僕はまともに就活したことないから、これはイメージでしかないけれど。
でも、僕はふつうの就活がしたい。自分にとってのふつうっていう意味で、自然な就活とよぶべきなのかも。好きな会社にのみエントリーして、好きな会社には好きな社員がいて、直観とか勘で選んでもいいじゃん、というノリでやれる就活。これはよくないことだろうけれど、企業研究、業界研究なんていまやって、それが僕の10年後の幸福を大きく左右するというのは想像できない。将来のことなんて実際にはたらきながら考える、むしろ、そうしないとわからないのがふつう、じゃないの。だからこそ、将来を考えられる会社にいくことを最優先すべきで、そんないい会社っていうのは直観でわかるでしょ。もちろん直観を検査するプロセスは必要だし、その手段はいわゆる会社説明会かもしれないし、オブラブみたいなコミュニティあるいはイベントかもしれない。それで確かめて間違いがなければ決めればよい。
イベント後のタイムラインで、今回のオブラブの内輪感について意見が交わされていた。僕はというと、お知り合いのかたがいらっしゃったおかげでなんとか有意義なコミュニケーションを果たせたと思う。でも、もし知り合いがいなかったとしたら、まあべつにだれとも話せないわけじゃなくて、自分から発表者とかに質問しにいけばいいんだけど、しかし、あまり共感されてもしょうがないけど、非コミュにとってそういうのはとんでもないことです。(このへんは主張が矛盾するんだけど)こういうビジネスではない主体的なイベントっていうのは、フォーマルなコミュニケーション(業務)と、インフォーマルなコミュニケーション(おしゃべり)のあいだくらいにあると思う。つまり非コミュのためにある。業務では文脈外の意見交換なんてしないし、非コミュにとっておしゃべりというプロトコル不明のコミュニケーションは困難すぎる。だから「発表を聞く」ところから「発表者に質問する」という形式的なコミュニケーションが用意される、こういうイベントは非コミュにとって貴重な場だし、もっと勝手をいわせてもらえれば、今回僕が知り合いに助けてもらったように、群れからはぐれた羊のような非コミュを救ってあげる仕組みがあるのが理想であるという意味で、内輪感という問題を解決すべきなのかなと思う。じゃあ具体的にっていうとわからん。とりあえずハッシュタグ使ってつぶやいていると、アカウント名くらいはちょっとはひとのあたまに残るみたいなので、なんかそういうひと(僕みたいにおしゃべりに先だってネットで自分勝手に発言するしかないひと)がコミュニケーションのきっかけを増やせるようにできればいいのかなあ。
おもしろかったか、つまらなかったか、でいえば、僕は今回のオブラブ、あんなに感動したアレグザンダー祭りにも劣らないほどおもしろいと感じました。いまさらですがスタッフのみなさん、発表者のみなさんに敬意を表します。ありがとうございました、今後もよろしくお願いします。
パターン | |
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Togetter - まとめ「パターン・ランゲージにおけるシェファーディングとは何か。」を読んで気になったのでシェファーディングのランゲージ(pdf)を読んでみた。
シェファーディングはパターンをよくしていく方法なので、パターンライティングや「羊」の経験がない僕が読むのもどうかな、と思ったが、ウェブサービスの改善や論文の書き直しにも通じるところがあり、楽しく読めた。ぎゃー!と思ったフォースなどをちらっと紹介しよう。
1. 三度の繰り返し通常、シェファーディングに割り当てられた時間内に、三度の繰り返しを可能とするためには、ほぼ間違いなく、直ちに取り掛かる必要がある。
ぎゃー!
やりとりがうまくいかない、作品の改善が進まない、という問題に対して、やりとりを増やせばよい、というのはありきたりな答えだ。実際に、三度、やりとりを繰り返せば作品はよくなるだろう。「やりとりを増やす」というあいまいな言い方に比べて、「直ちに取り掛かる」ことは、決心に費やす勇気が大違いだ。ゆえにシェファーディングのランゲージは、これを成し遂げるために「半分のパン」や「筆界は羊を知っている」パターンと結びつける。
2. 羊飼いは羊を知っているほとんどのシェファーディングは電子メール越しに行われる。電子メールはシェファーディングにとってほぼ理想的だが、互いに離れていて、いくらか匿名性を含んでいる。こういった性質が、電子メールを無視しやすくする。
ぎゃー!
メールにはいいところもあって、わるいところもある。いいところだけに注目して「はい成功」といかない現実はまさにフォースである。批判を受けるのはこわいし、批判をするのも心苦しい。しかしお互いがそのことを知っていれば安心できるものだ。そのうえで、期待していることを伝え合っていければ、いいおつきあいができるはずだ。
5. 持ち主としての作者しかし時間が迫ってくると、作者は深く考えることもなく、シェファードの提案を単純にパターンの中に埋め込んでしまうだろう。
ぎゃー!
論文を直すときや議論をするとき、考え込むのがつらくて、納得できていない言い分を受け入れてしまうことはよくある。いいなりになるのはらくだ。だってあなたがおっしゃったのですよ、と言い訳が利く。
このパターンはシェファードの視点で書かれたものだが、羊の立場としても戒められる。その問題を一番深く考えているのは自分自身なのだ。「だってあなたが」なんていう言い訳はどれだけ愚かなことだろう。
この問題に対する、応答を質問で表そうという解決も、まったく妥当である。
6. 問題と解決のマッチングパターンは、始めから終わりへと順序良く書かれているわけではない。作者はパターンを書くに従って、その中を跳び回る。
ぎゃー!
そして、
8. フォースが問題を定義する形式上、問題がまず初めに来るので、作者は時折、解法を書く前に問題を記述する。だが、これもまた問題を含んでいる。解法をよく理解しないままに、問題を衝動的に記述する。しかし、作者が解法について詳細に考え抜かない限り、そのような問題の記述はあいまいで、非常に大雑把なもになりがちだ。
ぎゃー!
問題と解決の結びつきが重要であることはわかっている。僕はこの手の話が好きなので「問題こそ重要である」という考え方にはなじんでいる。しかし問題を定義することは難しい。なるほど、解法がわからない、衝動的に考えられた問題なのだ。
ゆえに問題を記述するためにフォース、そして問題とフォースの関係を考え抜くことが重要になる。パターンが単なるマニュアルでない理由としてフォースの存在が語れることにも納得がいった。