「逆説の日本史」はクセになる!?

2週間ほど前になるが、井沢元彦著『逆説の日本史15 近世改革編 官僚政治と吉宗の謎』を読んだ。このシリーズは好きで、出るたびに買っている。日本史の常識を気持ちよく覆してくれるところが面白く、今回は<徳川吉宗は「バカ殿」だった!?>といううたい文句。TVシリーズ暴れん坊将軍松平健から快活・磊落な名君とのイメージがあるけれども、実は…というところだ。

井沢氏に対しては批判が多いことも承知しているし、歴史の専門家ではないので史料の読み違いや歴史の組み立ての甘さなどもあると思うが、ポリシーに賛同でき、日本史の流れが興味深く読めるところを高く評価している。塩野七生さんの記事にも書いたが、歴史の流れを面白く読ませるには、学問的な成果に基づきながらも、「歴史の流れの大枠を読み取って分かりやすく伝える」という別種の才能が必要だとつくづく思う。事実の厳密さだけを追求すると、そうした部分は切り捨てられ、一般の人に歴史の面白さが伝わらない結果になる。

もちろん、歴史を単に面白おかしく脚色しているだけなら論外だが、井沢氏の立論はそういった類のものではない。また、今回の吉宗バカ殿説にしても、バカなのは経済政策についてであって、評価すべきところはしっかり評価しているなど、バランス感覚もしっかり備えている人だと思う。

歴史学会に物申す」的な言い方にも説得力がある。たとえば、「歴史にIFはない」という歴史学の常識に真正面から異を唱えているが、私もまったく同感。この言葉には昔から違和感を感じていた。歴史上の事象が一通りしかないのは当然だが、例えば関が原の戦いで「秀忠率いる本軍が間に合っていたら」「小早川の裏切りがなかったら」「毛利軍が動いていたら」…といったIFを考察・シミュレートすることで、その事件の本質をより鋭く分析できるのではないか。そういう柔軟な発想を否定するのは、歴史学にとって不幸なことだと思う*1

史料絶対主義への井沢氏の批判も、的を得たものだと感じる。「史料が残っていない=そういう事実はない」という発想は、一面的には正しいかもしれないが、「特別・異常な出来事は記録に残りやすく、当時普通だったことは記録に残らない」という当たり前のことを考慮しないと過ちのモトになる。

ここでは、井沢氏が日本史理解のカギとして強調する「言霊」「怨霊信仰」などについては触れないが、やはり読み応えのある立論だ。当然ながら素人ゆえ、「井沢氏にうまくダマされている」と言われたらミもフタもないが…(笑)。批判的に読むことさえ忘れなければ、日本史への興味と想像力を喚起してくれる楽しい読み物として、歴史嫌いの高校生をはじめ幅広くお勧めできるシリーズだと思う。

*1:とはいえ、面白おかしく書かれたいわゆる歴史シミュレーション小説には興味が持てない。それなりに厳密な思考実験でなければ、「何とでも書ける」という遊びの域を出ないのだから。