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学園祭/差別と区別

学園祭の宣伝

1.サークルでどら焼き屋さんをします。
主体になってるのは一年生なのですが、僕もふらふらしているかもしれません。
可愛い子いっぱい用意してます。僕に袖の下をこそっと(そしてごそっと)渡すと、後ろの茂みでごにょごにょ!とかもありだったりなしだったり。

2.id:sakstyle氏のお誘いで、有志が作った批評系同人誌にこそっと寄稿させていただきました。
タイトルは「ウェブで表現することとは―2.0時代における現状と可能性」です。
詳しくはsakstyle氏のブログに。他の方のタイトルもかなり面白そうなのばっかりなので、興味が湧いた方は是非。
1C棟の5階だそうです。

差別と区別

差別と区別はどう違うのか、という話をある人としていた。
僕は、「区分の根拠に正当性があるのが区別、不当なのが差別」、その人は「区分に際し価値判断をしているのが差別、していないのが区別」という風に意見が分かれた。
ちなみに好井裕明「差別言論」からメンミの差別主義者の定義を孫引きすると、
「差別主義とは、現実上の、あるいは架空上の差異に普遍的、決定的な価値付けをすることであり、この価値付けは、告発者が己の特権や攻撃を正当化するために、被害者の犠牲をも省みずに己の利益を目的として行うものである」
だそうな。
どっちも半分くらいしか当たっていなかった。というよりむしろ、あるものを区分する行為、それを区別か差別かの二者択一で問うことが間違っていた気がする。
よくある「差別じゃなくて区別です」という間抜けな言い逃れは、区別であることが必ずしも差別であることを逃れ得るわけではないという点で、正当性を持たない。

ちなみに議論の中で、差別かどうかを判断する際、差別「される側」の視点を取り込むか否かという話も出てきた。僕は、上記のメンミのように「〜すること」と言う風に、差別「する側」の定義によって差別を定義すべきだと思う。なぜなら「される側」の視点を持ち込むことで、差別を不当なものとして訴える際、「される側」のスティグマを固定化・強化してしまう可能性があるからだ。もちろん、差別「される側」は不愉快だろうし、そうした不快さを訴えるのはいいのだけれど、そのときに差別「する側」の攻撃性(及びその不当性」)を経由した上で訴えないと、差別の的になっているスティグマが周囲に固定した概念として広がってしまうのではないか。